「アトリエかつびの44年」展―抗いつつ、・・・-

44年の歴史の中で出会った様々な仲間たち
44年の歴史の中で出会った様々な仲間たち

大野 恵子(おおの けいこ)

 

2015年10月5日から11日まで、好文画廊において「アトリエかつびの44年展」が開かれた。かつびの44年の歴史の中で出会った様々な仲間たちと、旧交をあたため、お互いの作品がどう変わっていったかを確かめ、これからにつなげていく貴重な機会となった。会期中に開かれた「あの伝説の、望年会」には、創作にかかわる人のみでなく、近所の方たちや遠方からも多くの方々が駆けつけ、かつびの活動の豊かさや広がりを、改めて感じることができた。

 

「見果てぬ夢を抱いて、気負いと現実の抗いのなかで歯をくいしばり、互いにぶつかったり、揺れたり刺激し、授けあって・・。作家としての生活と、結婚し、家庭を作るという生活とを維持する厳しさを共有し、同じ時間と空間を共にしてきました。個と集団のまれな、不思議な歴史かもしれません。」(あいさつ文より)

 

 

「アトリエかつびの44年」展―抗いつつ、・・・-
「アトリエかつびの44年」展―抗いつつ、・・・-

そのまれで不思議な歴史を振り返ってみようと思う。

 

1970年、金沢美大卒業後、上京してきた5人の若者が、制作場所を確保するためどうするかを考え、「なければ作る」の精神で模索。アルバイトで資金を稼ぎ、1年後、新小岩に40坪の土地を借り受け、共同アトリエを建てる。

 

山本明良さん「格安のプレハブを手に入れ、3か月をかけて自力のアトリエが建った。12坪2階は居住空間、16坪は制作空間。アトリエ開きの日、100人を超す友人たちが全国から集まってくれ、感激の出発点となった。」

 

翌年、ヨーロッパから帰国した冨田憲二さんがメンバーに加わる。

 

冨田さん「半分、ヨーロッパかぶれの僕は地に着いた生き方を見る。“大衆から美術を!”のスローガンはかつびの根源で今も変わらない。学生時代、理不尽な権力が美術の世界にも存在することを知り、それだけは関わるまいと、この『葛飾美術研究所』に賭けることにした。」

 

また、作家の生活を守るためにも、グループの力が発揮された。

 

山本さん「経済的には、初めの頃は山谷の立ちんぼなど日銭を稼ぐものであったが、一日いくらという時間を売る仕事から、一つの仕事をしていくらという請負の仕事を選ぶようになった。それは一人ではなく集団の力があって可能になった。」

 

稲井田勇二さん「最初は看板系の仕事だった。見よう見まねで今から思うとハラハラするような仕事ばかり。代々木公園の大きな金網にへばりついてやった『金網張り』。それから市川市の『ユニーク』という会社の力任せの汗水と黒い粉塵にまみれた仕事。請負だったので仕事日と創作の都合を調整しあい、保育園への送迎の間に大急ぎで仕事をした。明日、その仕事だという前日は“よし!”と気合をいれるようなキツイ仕事だった。暑くて寒い屋上での防水工事。子供たちの工作教室。それぞれに頭を寄せ合い懸命だった。少しでも多く、創作の自由な時間を持とうとした。」

 

1977年個室形式の新アトリエが完成。

 

山本さん「制作の集中度は大きく高まっていった。作家として自立のための研鑽は昼夜を問わず、お互いのアトリエ空間を意識しながらライバルとして励んできた。」

 

個展やグループ展など発表活動も盛んになり、コンペやコンクールにも挑戦。

 

山本さん「応募し選外になる日々が続いたが、ささやかな自尊心を鍛えることにもなった。自由を獲得する道でもあった。」

 

創作活動がそれぞれ波にのっているとき、1991年にアトリエの移転問題が起きる。大家さんの事情で立ち退かなければならなくなり、移転先がなかなか見つからず困っていたところ、東京新聞にかつびのことが記事になった。≪東京の刺激をバネに20年≫都会の土と夢を共有してきた男たちーというタイトルで、アトリエの解体の危機が伝えられる。それを見た、柴又に住む斎藤昭一さんが、土地の提供を申し出た。

 

斎藤さん「彼らの存在は知っていた。あの新聞広告を見て、大変だと思った。同じ葛飾の土地に引き留めてやりたかった。」

 

そして1993年、柴又に新アトリエが完成。「精一杯やってみんなの恩情にこたえたい。」と、全員、再出発に夢を持った。当時の葛美会ニュース「素描」にそれぞれの思いが語られている。

 

稲井田さん「決して軽くないこれまでの20年が何だったのか。生産性、効率、直ぐに役立つの尺度だけが唯一、絶対基準の世の中を横目に見て、呑気だからね、アハハ・・と、どうやらここまで来た。アトリエ引っ越しは作家としての転機とも重なる。」

 

旭義信さん「今度の柴又のアトリエは、私にどんな変化をもたらしてくれるのか。恋人を待つ思いでその出来上がりを待っているのです。」

 

山本さん「我等10人が、共同アトリエを軸に、自己を磨き、芸術を深く掘り下げ、時代に光明を与える仕事を求め続けたい。与えられた生の器を喜びで満たしたい。そして、自分の心に追いつくカタチを生むため、飽くことなく、何度でも挑みかかってゆきたい。」

 

高崎哲さん「自然に恵まれた環境に建つ新しいアトリエに多いに期待している。」

 

冨田さん「ここが喧噪のジャングルだとしても、目標にすべく星座を見出すことはできる。目を凝らし、見据えていれば。」

 

布目勲さん「新しいアトリエを契機にして、飛躍をしようと意気込んでいるのです。」

 

いなおけんじさん「新しいアトリエが出来る。日常生活と自分の仕事の区別がつけにくい今の状態から、一つの生活と仕事のリズムを作ることが出来るように思う。」

 

丸浜晃彦さん「アトリエに生活の重点を置いて、精力的にやりたいと思っています。」

 

能島芳文さん「これからはちょくちょく行けるなと、楽しみにしています。」

 

それからの24年間はどうだったのか。

 

山本さん「初期の頃はライバルという意識はあったが、お互いの進む方向、作法、道が見えてくると自分の中にある『不自由な自分』とのたたかいになっていった。」

 

いなおさん「それぞれのスタイルが確立して、波風は立たなくなった。お互い作品に対して干渉しないつかず離れずの関係。それでも続いてきたのは、創作を続けるという根っこをお互いに認め合っているからかな。また、核になる山本、冨田の両氏がいて、その生き方がずっと崩れない。頭を柔らかくし常に広い視野を持って制作している。そこから学ぶものは大きい。」

 

冨田さん「集団といっても創作はきわめて個人的なことで、孤独な仕事には変わりない。ただ造形制作には適切な仕事場が不可欠で、かつびもその変遷であったような気がする。それぞれのアトリエをめったにのぞくことはないが、土や木や石が主体だった造形観に、平面構成や色彩観が日常的に浸透して来たことには間違いない。『実験工房』そのもの。」

 

「アトリエかつびの44年」展を経て、これからの創作への思いはどのようなものだろう。

 

山本さん「仕事をするということは、新しい造形の可能性、新しい自己を見つけることである。それは仕事をし続けなければ見ることの出来ない世界であることがはっきりわかる。野外彫刻のおもしろさの発見、彫刻シンポジウムでの海外作家との交わりでの刺激、未だ知らないアラブやアフリカの世界で彫刻を立てたい。あと10年鑿とハンマーを振るっていたい。そして、もうあと10年、素材や形におもしろく遊ばれたい。」

 

丸浜さん「今、自分がどこにいてどこに向かっているのか五里霧中。自分が感じたものを感じたままに続けるしかないと思っている。」

 

旭さん「“まだ、これから!”という心境、最後まで一点でもいいものを・・と思っています。」

 

冨田さん「威張らず、自慢らしげなことも言わず、能書きは垂れず、身勝手のたまものだが、理不尽な権力には向きになって抗う。実に変わった人達だと思う。多分、それに輪をかけ“自分もその一人”のような気がする。」

 

布目さん「制作しているときは自分の中に何があるか。古くて新しい?日本画を見つめて、ワクワクドキドキになっている自分を見つけています。」

 

いなおさん「目標を定め、制作と発表を重ねてきたつもりでしたが、先は見えない原野のようです。それでも“ものづくり”にしがみついて生きていくのだと思います。」

 

私がかつびの存在を知ったのは、20代半ば。美大を卒業してこれからどう生きていくか悩んでいた頃だった。そんな私の眼に、芸術家として地に足をつけて生きているかつびの面々が、どれほど眩しくかっこよく映ったことか。その生き方から、創作に向き合う姿勢、作家とはどうあるべきか、人の輪の大切さなど、多くのことを学ぶことができた。今回取材して、時代の流れの中でアトリエを続けていくことは決して簡単ではなかったこと、数々の逆風を潜り抜けてなお、存続させてきたことを知り、改めてその逞しさに敬服。そしてこれからも、芸術を目指す人にとっていつまでも光り輝く羅針盤のような存在であり続けてほしいと思う。