日本画に独自世界を拓いた岡本博さん

アトリエにて 右から 岡本博さん 編集部木村勝昭
アトリエにて 右から 岡本博さん 編集部木村勝昭

編集:松山 しんさく

今年は暖冬なのか、11月半ばというのに陽光がやんわりと心地よい。スマホのナビを頼りに静かな住宅街を往くと、道端に三本の欅の大木が現れた。送電線鉄塔もある。まさに岡本博の世界に入っていく。

 画家の家は、芝垣に笹と石蕗の花があしらわれた和風門構え、近隣の建物の中に在って閑寂な風情を醸していた。 画室に入ると、なんと作品の山に埋もれて画家の居場所は谷の中。


 訪問のつい数日前、調布のギャラリー「みるめ」の個展が終わったばかり。太めの訪問者が入ると動きがとれない。画室を建てたのは1960年頃とか。半世紀以上にわたる果敢な創作に押し潰されそう。 吉祥寺名物の小笹最中でまずはお茶を楽しむ。はなしは、日本現実派から始まったが、ここでは順序として生い立ちから、画家の言を記しておこう。

 以下、<…>は訪問者(木村勝明、松山しんさく)の質問、追記など。

 

生い立ちから

 生年は1933年、熊野市に育つ。いまは亡き長兄(岡本実)は、シベリア抑留帰り。実家を継いで高校教師をしながら、絵画集団「うつなみ画会」を創り、自由美術に出していた。長く文化協会会長をつとめ、郷土史家でもあった。熊野に原発誘致の動きがあったとき、漁民とともにその反対運動に参加し、原発を阻止した。その娘(岡本郷子)も自由美術に出している。1997年、郷里の市民会館で個展をやったのは兄の協力による。このとき名古屋の繁沢さんという方が初めて図録「岡本博の世界」を作ってくれた。

 1951年、東京芸大日本画科入学、小林古径の内弟子に抜擢された。短い期間ではあったが、内弟子を辞めたとき、「そのまま居れば将来が約束されたのに、もったいない」と言われた。同じことはもう一度いわれた。平山郁夫に前田青邨の鞄持ちで旅行を誘われ、断ったときだ。「行けば助教になれるのに」と。自分は違う路を行きたいと思った。

 岡本博 吉原の藤(早春) みるめ個展 2015
岡本博 吉原の藤(早春) みるめ個展 2015

日本現実派結成のころ 日美での活動時代

1955年(22才)、卒業と同時に第8回アンデパンダン展に初出品した。その頃、アンデパンダンの仲間と「日本現実派」というのを結成した。当時は、うたごえや新劇など文化運動が高揚していた。「みずゑ」で外国の動向が紹介されていた。戦後の平和憲法の下で、新しい日本の文化を創り、現実を作品化する熱い想いで、ジャンルを越えて集まった。命名は、参加はしなかったが、川上十郎さんか? 澁谷草三郎、谷内栄次、岡田愛子(澁谷氏夫人)、中島保彦、伊藤和子、落合茂、などがいた。毎月アトリエなどに集まって、自作を語り、討論し、飲んで懇親した。渡辺皓司もあとから入った。僕は日本画の伝統的技法を大事にしたいと思った。地方で文化活動をやっている人達と交流し学び合うために、岐阜や熊野で地方交流展もやった。東京では、中島保彦さんの親戚から紹介されて紀伊國屋画廊で2~3年続けてやったと思う。

1965年、第8回アンデパンダン展の実行委員長をやった。その頃、日美で日本画研究会を創った。これには朝倉摂、横山操のほか、銚子の人で明石哲三、院展の岩崎巴人(はじん)、新制作の菊池養之助、平田晴耕、朝木良之助、宮本十久一、笹本克彦なども参加した。月一回、蕎麦屋などに集まった。<日美の年史に1969年「第1回日本美術会日本画展」(地球堂ギャラリー)から1974年第4回展までの記録がある>。のちに「日本画懇話会」などに続くが、この経緯は記憶が不確かで、ほかの参加者などの証言や記録などで日美史を補完できれば、と思う。

1979年、中谷泰さんの紹介により銀座セントラルで第3回企画個展を開いたが、金が無く、丸山画廊主から会期の終わりに、ここは月何百万の会場なので、絵をもらえないかと言われた。初めに言ってくれればなんとかなるが、終わってから言われても困ると断ったら、中谷さんからすごいこと言うねと驚かれた。吉祥寺でやった展覧会も、日本画懇話会展だったか? 日美関係では宮本和郎、高橋武などがいた。

1977~79年の間、日美事務局長を引き受けた。1977年熊野展図録にある山の絵と似た作品は、松田解子さんがいつも書斎に飾っていた。彼女の故里の山と同じだと気に入ってもらった。当時は奥多摩に通って山を描いていた。

国際活動については、落合茂とともに1965年世界青年平和友好祭の代表になったが、アルジェリア政変で中止。そのメンバーに久田弘、渡辺皓司を加えて、同年日中文化交流に派遣された。欧州へは1971年中欧、1994年北欧、1996年アイルランド、2003年ドイツでの個展(「Japanische Gefuehle 日本人の心情」 ベルリン・リヒトブリック画廊)、など写生・見聞や展覧会の機会を得た。最近では2003年、光州「韓日美術交流展」 にも参加した。

岡本博 街で 平和美術展 2015
岡本博 街で 平和美術展 2015

日本画問答

学生の頃はドーサ引きの紙に描いていたが、その後、ドーサを引かない水墨に集中してみようと思った。

 ベルリリンに作品を持ち込んだ時は、巻紙にして機内荷物とし、現地でパネルを借り、小麦粉を錬って一週間水張りした。向こうの人達は珍しい作業だと見物していた。和紙はこういうことが出来る強い素材だ。画仙紙は書道に使う薄紙で裏打ちをして補強する。色が重なると膠でガバガバしてくる。楮紙は強いので裏打ちにも使う。水で滲まない硬い紙だ。くっきりした線は鳥の子紙を使う。三椏(みつまた)が漉き込まれてしっかりとしている。

ドイツで「日本画の特徴とはなんぞや」と問われた。「線ではないか」と返すと、「線とはなんぞや」と問う。「線は骨である」といえば、「ドイツでは肉は食うが、骨は捨てる」。そこで、「骨は精神的な神髄の意味である」と…。とうとう分かり合えなかった。<ドナルド・キーン曰く、「西欧人には日本人は分からない」>

<岡本さんの心は弟子たちに伝わっているか?>

生徒に思い入れで言うと反って伝わらない。期待してちょっと強く言いすぎたりすることがあるが、その人の才能を欠いてしまってはもったいない。

<昨年のアンデパンダンで、あなたの鳥は飛んでいないね、といわれた。以後飛ぶ鳥を目で追ったが、速くて目に留まらない。カメラのなかった江戸の画家はどうして描いたのか>

目写という言葉がある。写生は人それぞれだ。カタチを写す人、神髄を掴む人、感動を写す人、…。小林古径先生は、「いっぱい写生をして心に焼き付けたら、それを画面に吐き出しなさい」といった。教室では寡黙な先生が、奥義を伝えていると思って記憶に刻みつけた。まだ18才だった。スケッチブックを見ながら本画を描くようでは、スケッチはできていないという意味だと思った。

またあるとき、安田靫彦先生は、「たっぷり色をお使いなさい」と言った。絵具をケチケチ使うな、という意味ではない。<自分の感性を十分に自由に筆先に込めよ、ということか>。戦時中の画家達は絵具が手に入らず、戰争画を描いて配給を受けたというが、描く気持ちがあれば、墨でも土でも描けた筈だ。人間は名誉欲のような弱い部分があり、賞を貰おうなど下心をもつと足をすくわれる。<フジタはいま、戰争画特別展や映画にもなって注目されているが、当時画材には不自由しなかったろう> アッツ島玉砕など悲惨さが良く表現されていると思う。<野見山暁治によると、その絵の前に直立不動で立っていたという。神がかっていたのかもしれない> 横山大観も軍用機資金のために絵を売ったという話はよく聞く。

 

継承のこと

<最近の人達の感覚は、岡本さんのと違ってきているのでは?>

現実の底に流れている伝統をどう見るかの問題だ。TVで川端龍子の「雄鶏」を持ち上げていたが、宗達の「蓮池水禽図」では、大きな蓮の葉と散りかけた花にカイツブリが急いでいる。いかにも奥深い自然が描かれていて、観察力と表現力がすごい。伝統とは、人々の心の流れであり、大切に見つめないといけない。この作品は廃れてはいない。現在まで流れており、僕は楽観的だ。熊谷榧さんが水墨を習いに来たことがあり、その縁で1994年以降、熊谷守一美術館で個展や塾生展を何回かやった。背中の手術をしてから、画塾は止めた。医者に、床に置いて描くよりも、低くても台を置いて描くほうが背中によいと勧められた。

<岡本さんの絵は、富士山あり松の木ありですごく通俗的な題材だが、自分のスタイルと空間がある>

<富士には時に軍用機も飛び、日本のシンボルの裾に軍事演習場もあるというのが、大観の富士とは違う>

<単なる通俗風景ではなく社会性があるということか。岡本さんのような個性的作家に続く人がいない。大回顧展と代表作の画集が出来たら良いが> それにはまず、作品の整理が大変だ。画室は狭いが、小さい作品でもよいから自分で気に入る絵を描き続けたい。

最後に図録の言葉から「宗達や雪舟、北斎や蘆雪、大雅等々の優れた過去の伝統を血肉化して、同時に今日の現象の底にある真実を描くことができれば…、まだまだ道は遠い…」を引用しておこう。

愛犬「てつ」と土偶玩具
愛犬「てつ」と土偶玩具

画室の片隅に土俗的な人形、壷、玩具が置かれているのも面白かった。画家の心に焼き付いた形象の一部をみたと思った。帰り道、岡本さんに送られて、くだんの欅の大木の下にきた。仰ぎ見ると送電線に鈴なりの椋鳥、暮れなずむ空には三日月がうっすらと浮かんでいた。岡本さんは犬友と言葉を交わす。これが軟らかい線で描かれる街と人なのだ。別れ際、<また鳥に挑戦します>というと、「剥製は描かないでね」。なにか分かった気がした。


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コメント: 1
  • #1

    kimura,katsuaki (火曜日, 19 4月 2016 20:12)

    写真が大きくなって、きれいですね!中の「日本現実派結成のころ、・・・」の始まりのところ訂正です。1555(22才)という年代は1955年が正しいです。正誤表もできています。
    管理者のSintaniさんへ、メール添付でおくりますね!