アトリエ訪問 「差別と抑圧のなかロマンと反骨の人 坂下雅道さん」


菱千代子

9月26日(月)の午後、流山線の住宅地にある坂下雅道さんのアトリエを機関紙部の2人、遠矢浩子と菱千代子、それに職美協〔全日本職場美術協議会)の仲間である、阿部正義氏の3人で訪問しました。

 坂下さんは目下重病の奥様をかかえ、介護中心の生活、ベッドの横にイーゼルを立てて描いているとのこと。しかしお見受けしたところ、介護疲れの影も無 く、しっかりとした口調と若々しい風貌で、とても80を超えられたお年には思われませんでした。今、渦中で注目されている東京電力勤務時代にさかのぼり、 作品のテーマ、制作の両立の苦労等お伺いしました。


まず、日美にお入りになった時期と、動機をお伺いしたいのですが。――

 入会したのは1987年でした84年児玉房子んが37回展実行委員長の時に搬入出の責任者を引き受けて、非効率な手続きにびっくり、終了後分厚いマニュ アルを作成、児玉さんに答申したものが今でも修正を繰り返しひきつがれている。その後児玉さんと山下二美子さんのすいせんで会員に。

東京電力にお勤めだった。その間東京電力での仕事は大変でしたか。――

 東京オリンピックの直前63年から64年にかけて東京の北部、1000人程いた職場、同盟〔後に連合)に所属していた東電労組支部で「合理化反対、生活 と権利を守る、自由にものを言える職場づくり」の主張を掲げ民社党支持、労使協調の路線に反旗ひるがえして常任執行委員長選挙に立候補、勝利したが労使双 方の様々な干渉、圧迫で次期選では敗北、以後19年間同じ椅子に座らせられて差別と抑圧のなか息を詰まらせての日常でした。私を支持したすべての人々への 差別、抑圧は私生活にまで及び思想差別人権裁判20年の戦いが東電を追い込んだことはよく知られている。1947年入社当時のこと、生存権を主張していた 産別会議単一組織、電気産業労働組合(電産)に所属していたが関東配電労組(東電労組の前身)へ、総評系から労使協調路線を歩む全労会議へなだれうって分 裂移行したときの強引で執拗な転向説得は幹部が自宅までくるという状況のなかで拒否を貫いていたら本店支部で僕が電産組合員最後の一人になっていた。

東電の現場に入り、会社の体質がおかしいことに気付いて、文学サークル、絵画サークルを作り、労働組合の常任執行委員長になったのだが、すべての面で労使 一体の締め付けと干渉に阻まれて本部執行委員会での発言を問題視され除名されそうになった。ユニオンショップ制だったので、自動的に会社も首になる、首は つながったが、新入社員教育では、「あいつと口をきくな」と、無言の日々だった。

そういう間、仕事そのものはどうしたのですか。――

 最初は系統運用需給の仕事、まもなく仕事をとりあげられて時々、送電線ロス計算や,力率改善の仕事を頼まれたがライン外だったので自分で仕事を探すしか なくて、そのうち僕が何の仕事をしているのか誰にも分からなくなって僕だけの仕事、正弦波形の歪みや無効電力の解斥など、毎日こつこつ無言で誰も知らない 誰もやらなかった仕事になっていった、干されていても安堵感があった。組合運動をやめろ、思想転向しろという干渉は学生時代の友人や兄弟等を通しあらゆる ところから来た。勿論ライン上司からは何度もかわるがわるくりかえされた、ある係長は「坂下の仕事をとりあげて代わってやれ」と指示されて、わからない仕 事に悩み鬱に精神的苦痛で病気になって格下げ転勤になった。

戦争もご経験がある。その体験はやっぱり大きいですね。――

 戦争が終わったのが18歳の時、学徒義勇隊員として下丸子の工場に動員されたが爆撃で秩父へ移転、八高線毛呂駅まで牛車で資材運びをした、宿舎は農家の 蚕部屋で農家の手伝いもした。当時八高線は蒸気機関車で、走行中2度米軍機に銃撃され近くの小学校やあぜ道に逃げて難を逃れたこともあった。学業はほとん ど出来なくて、教師も徴兵されていなかったので自分たちが交互に講師になって勉強していた、空襲で自分の家も燃えたし。

どこに住んでいたのですか――

 日暮里駅の近く、空襲のときは水をかぶり渦巻く火の中を浅草竜泉寺町まで逃げた。逃げられなかった人は小さく黒こげになってあちこち道路で亡くなってい た。戦後とてつもない変化、すべてが180度、ひっくり返って、兄がフィリッピン、ルソン島で戦死したとの情報を聞いたこともあって旧工専卒業と同時に考 え方が変わって電気専攻をやめて別のものをやりたいと思った。1947年、東京美術学校門前に掲示してあった工芸技術講習所募集に目が留まり受験した。上 野直昭が所長、富本憲吉が初代の責任者で教授陣に前田泰次もおられ、斬新な工芸論に心底影響を受けた、また同級生には東京美校、多摩美、女子美、高等工 芸、学芸大、工大、陸士出身がいてその多才な姿勢稀有な校風に大きな刺激を受けた。

色々なジャンルを勉強したのですね。――

 金工、漆工、陶芸、工業デザイン、建築、広告、照明等幅広くデザインを実習できた。卒業後芸術大学工芸計画部に引き継がれ、副手の辞令を受け生徒時代を 含め在学7年、長く勤める意志が無かったし食べなくてはならなっかったので、アルバイトのつもりで関東配電本店(後に東電)に勤めた。昼間は芸大、夜と日 曜は東電という日々、夜勤を買って出て平日の時間をフルに使った。アテネフランセに通ったり、かなり無理をして身体のあちこちガタガタになってしまった。

身体こわしたあたりから絵とは離れましたか――

 芸大と東電の掛け持ちのときも身体にがたが来たが組合の常任委員長をやっていた一年間で本当に身体をこわしてしまった、検査入院、病巣がみつかり命に限 りありの診断、二年目の選挙落選は命永らえる治療になったのは皮肉といっていいのか。この一年間以外はずっと描いてきた。プールヴー研究所と太平洋美術研 究所に通っていた、腰をいれて描き始めたのは、1973年日美の写生会に参加したころからだが、その前たしか1964年職美協の金谷写生会に参加したこと もあった、油絵は20代の頃から描いていたが日美の土曜講座にかよったり職美協の仲間からも多くを学んだ。



ここで、坂下さんの作品をいくつか見せて頂き、遠矢さんが撮影する。20代の頃描かれたお父さんの肖像、講習所で習作した漆塗りの蒔絵、朱塗りの小函に金属象嵌の作品、イーゼルには描きかけの10号位の動きある抽象的な作品が掛かる。反対側の壁には、畦地氏の木版画とロダンの素描が掛かる。坂下さんお手製のお茶碗でお茶を飲み、ピーナツ入りのお菓子をいただく。

何年生まれですか。――

 1927年昭和2年、日暮里に生まれ、根岸小学校入学、荒川区から下谷区への越境入学だった、通学路に子規庵があったり、あの辺は根岸の里と呼ばれ情緒あるいいところだ

坂下さんの絵で印象に残っていて好きな絵は、一見、羊のように見えた絵、半抽象に見える、サンゴの絵では――

 沖縄の民家を囲む風除けの石垣は珊瑚を積み上げたものだが沖縄戦で一家全滅の家の無念を見て描いた。

 職美協で描きはじめは、「家から駅まで」次に「管理という労働」 東電の労務政策はずば抜けていてすべての面で業界の見本を自認、他の大企業もこれに習っていた、ある日、窓越しに、目の前に落ちて行く人を見た、従業員が屋上から投身自殺したのだが若い労働者だった、隠す体質は全体を覆っていて、警察・新聞にも出ない、決して表には出なかった。人が落ちていく絵をいくつか描いたのはこの時のこと、徹底した労務管理、しかも自己管理を強制する、人間性まで喪失させようとするやりかたに怒りを覚えた、苦しかった日常、抑圧されていた心を表現しようと「管理という労働」を連作した。

 図 「管理という労働」(1993年)   

 

つぎに描いたのが「オキナワ・サンゴ」兄がルソン島北部で戦死、壕の中に葬られた話を聞いていたことと沖縄の糸数壕での追体験が制作にむすびついた。「未帰還」がテーマ、最近になって戯画化するようになってジャンケンしている痩せ細った兵を描いたり、労使一体パートナを自認する労組幹部を鳥に見立てて風刺したりしている。二年前から、「不在」というテーマで連作しているが手探り、旧約聖書を読むようになって具体的でない神に興味を持った、在るもの、まぎれもない存在と、たしかな不在、変わる時空、自分では見えているつもりだが描いてみるとこれは違うと思う

  図  「おまえは鳥か」(2008年)

一貫して哲学的な仕事をしてきた人と思う。――

物の見方に癖があって力のあるものに反発する学生時代からあまのじゃくだといわれた否定を否定する、キエルケゴールやニーチエに関心をもった、権力にたいしては素直でない。とにかく違うんじゃないかと。

日美の資料のこと――

 ジャスティンさんの功績は大きい。日美初期の頃からの「美術運動」をCD化して、職美協事務所にも資料の閲覧にみえて意見交換、そのことがきっかけになって「職美協の歩み・-結成から60年」-が刊行できた、日美の資料は各所に散らばって保存されていたのを事務所に集めるという地味な作業から始まって熱心な役員の取り組みが実って現代美術館での「クロニクル1947~63年アンデパンダン」につながった、資料は10周年おきぐらいに整理して残しておくことが大きな遺産になる。

地域活動について――

 先日の会議で地域連絡会のあり方について集中的に討議した、いままで重要課題だと言われてきたがなかなか具体的に進まなかった、支部制復活の話題もあり地域というのをどう考えたらいいのか、県単位を地域とするには大きすぎるし、この地域では常磐線沿線で連絡会を作っていて、来月18日から呼びかけに応じて集まった50人ほどで展覧会を開く予定だ、小さな単位で集まる、5、6人でいい。日美の趣旨を皆で再認識し、地域でどう結びつくかを考えることで展望が開けてくる。

坂下さんしばらく哲学的な事の延長で行きますか――

存在と不在、時空の意味を考えたい。年のせいかな。先がだいぶ見えてきたから。

旧約聖書を読んでいると神は内からの手探りでみえるもの毎日の暮らしの中から見つけていく今まで考えていた神と違うようだ。見えないがそこに在るものを、もっとつめていきたい。少なくとも人に伝える絵だから、自分で勝手に描いているだけでは意味がない。やっぱり表現として、どういう表現に向かっていくのか、今のところ自分でもよくわからないが感情だけの世界だけでは済まされない。

 

写真もだいぶ凝られたのですか――

シャッターとレンズがばらばらだったものを空き缶を使って組み立て、写したらしっかりしたピントだったが味もそっけもない写真が映った。キャノンやニッコールレンズはシャープな写りドイツ、フランスの玉にはフレアーを意識的に残すことをやっていて絵画的、最近になって写真と写生が同義語同じプロセス、とてもよく似た歩みをしていることに興味を持った、太陽の光が共通項、絵筆と似ていて表現が違うところがおもしろかった。

天体の絵を描いていた時ありましたね。――

 天体望遠鏡はアメリカ製、船便で取り寄せた反射望遠鏡、輪のある土星を見たときの驚きかぎりなく宇宙に魅せられてドキドキしたのが忘れられない、「天文年鑑」をみて惑星を追ったがこの望遠鏡は手動なので見つけるのが大変、ひとつの星を見ているだけで興味がつきない。台風の後の空は良く見えるのでベランダに幕張りして覗く。

大きな絵は描かないのですか――

 一時深夜描ける時間があったが、今は小刻みな介護が必要になって描けなくなった

陶器の方はどうですか。――

日常雑器の制作を基本に考えていたので土こねの量が多く一度痛めた腰がその都度痛み出来なくなった、土という素材を自分に引き寄せる感性、アンデパンダン展工芸の部屋にもそういう気風を広げたいと思って展示も合評も中心になってやってきたが今回展では会場にもいけなかった。

工芸について――

 図案は商業との結びつきが強いジャンルだったが今はデザインとして視野も大きく広がった。「この絵は工芸的」という言葉をよく耳にするが技巧的という言葉はあっても工芸的という言葉はない、芸大では図案科に並んで、工芸計画科が、そして図案計画科からデザイン科に変わった。デザイン科がビジュアル、とインダストリアルの2つに分かれて、最近になって、先端芸術科というのも出来たが前田教授が目指していたバウハウスの先を歩く運動に近づいているように思う、

人生楽しかったのではないですか。――

 もろもろの人と交流できたことはまたとない機会だった抑圧されていた自分を含めて人のいる風景、テーマをもらった。また労使双方が公安や警察と結びついていたことも、ぼくが会社を出ると目つきの悪い公安が待ち伏せ尾行してくる、日本の歌声のときも尾行され、いつも尾行の目を意識する日常が続いた。東電をやめた日、太陽の輝きに気づいたくらい色が違って見えた、たくさんのことを見聞きしてきたという点では幸せというべきか

原発問題について――

 60~65年頃茨城県東海村原子力発電所

運転開始をめぐって話題になっていたが技術系職場だったこともあって、原発賛成が圧倒的多数だった。僕は核の持ち込みになること、原発と原爆を切り離しては考えられなかったこと、後に東海の原子炉を見学、ここは被爆現場だと思っていたので太陽光発電を主張していた。

ビキニ事件、広島、長崎の被爆、スリーマイル島事故、チェルノブイリ事故、福島第一原発の事故、これら事故の源流は原子爆弾を動力に使うことから始まった、動力炉を潜水艦ノーチラス号に積み込んで兵器として使ったこと、度重なる放射漏れ事故を起こした原子炉と同型の炉を福島第一に、やっかいな汚染廃棄物の処理場として日本をターゲットに売り込む、安保条約を巡って大きな討議の対象だった「核の傘」、原発の安全神話と共通していることが立証された、双方承知の上,核兵器を持つこと、持たせること、平和利用を隠れ蓑に原発を導入したことは周知の事実、原発で働いている運転員達はどうなるのだろう、命の危険がずーと続くのだからね。この辺も放射線のホットスポット、どこに行っても安全な所がない。政府は送電部門と、配電部門を分けた方が良いと言っていたが独占企業を守れなくなるから言わなくなった、今度の首相もひどいね、と言う話が出ておひらきになりました。

5時近くになり、皆が立ち上がった所で、丁度下の奥様からコールがあり、おいとますることになりました。きっと我慢されていた時間は長く感じられたことでしょう。ご協力有難うございました。