「新人画会」の画家が書き残した言葉


司 修

眼の位置
眼の位置

  巻頭の言葉をお引き受けしましたが、私には大きな問題過ぎることをすぐに感じました。でも、幸いなことに、「自由美術」「主体美術」に属したことで、「新人画会」の画家たちに直に接し、多くの話しを聞き、私の人生に、力を与えてもらいました。私が聞いた話から、また、「新人画会」の画家が書き残した言葉を「巻頭言」に替えたいと思います。

 

 鶴岡政男[人間が人間を喰ったなんて話もあるでしょ。大岡昇平の『野火』っていいましたっけね、行軍していて喰っちゃう話ね。生真面目ってのは問題ですね。ものの全てが分からないってことが真面目なんだから。戦争しろといわれれば戦争するし、突貫しろといわれれば突貫するし、何やるか分からないスよ、糞真面目ってのは]

 

 盲目的に時の政府のいいなりになった大衆は、日本だけではなく、ドイツもイタリアもフランスもアメリカもロシアも中国も、国という国の人々が生真面目に従った歴史は、第二次大戦が終ってから無くなったといえるでしょうか。

 

 井上長三郎[ぼくはスネモノっていうのかなあ、そんなようなものと判断していますねえ。あのころ(新人画会)、糸園(和三郎)君とか鶴岡君とか、ぼくもそうでしたが左翼的な思想もってましたからねえ。そのころはそういう意識がなければ反戦なんてこと考えないですよ]

 

 糸園さんと鶴岡さんが、井上さんと同じような思想を持っていたというのは驚きでした。絵からはそれを感じていましたけれど。いっさい、といっていいほど、意識的な話を聞いたことがありませんでした。

 

 松本竣介[沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ]

 

 「沈黙の賢さ」とは、何事か分かっていても、力強いものには触れず、語らず、黙って過ごしている方が安全だ、という意味でしょう。しかし松本竣介は沈黙を破って、陸軍省の情報部員三人が言いたい放題言い放った座談会に「生きてゐる畫家」と題して物申したのでした。

 

 情報部員は、画家の痛いところを突いています。

 

 黒田千吉郎中尉[フランスの属国になるような形になっているのも、芸術至上主義でまず自分が抜け出ようとする。全部から切り離して自分だけが魁さきがけようとする。過去の日本になかったものを描けば批評家が批評してくれる。それからとにかく変わっているということで、一般に伝えられる。(略)それだけあれば芸術的価値が大であるというような事が一種の流行である]

 

 軍人の画家への批判は、いみじくも戦後ずっと通用していたように思います。

 

 鈴木庫三少佐[唯一一流の画家になろう、一流の彫刻家になろうという考えがあるから、結局金持ちと結びついて、金持ちの奴隷になってしまう。(略)「満州人」や「朝鮮人」は家の壁へ雑誌の口絵を貼ったりして明るくしている。日本では東北、北海道、或いは満州の開拓移民などの所へ行けば、ほとんど毎日毎日汗水流して働いているのに一枚の絵さえない。そういう家庭に]どうして絵を持っていって飾れないのか、といいます。軍人のいうことなんてあてにならないといえない、ジョークのような甘いムチが感じられます。

 

 秋山邦雄少佐[たとえば、日本がどんなに死ぬか生きるかの戦いをしている時でも、美術だけは最後までもり立てて起こしていかなければならないとわれわれは考える]

 

 殺し文句です。この言葉にかなりの画家がなびいたと私は思うのです。しかし松本竣介は、軍人がシュールレアリズムの絵を狂人みたいだというけれど、「狂人は悲痛である。人間の底を突いた痛ましい犠牲者である場合が多い。常識を失っているが、生きている時には自然のように常人を驚かすことをやる」と食い下がっています。松本は文の最後に、 (この一文は私一個人の責任で、私の所属する団体には何の関わりもないことを後記する)と記しています。

 

 寺田政明「一回しかない人生だから、人がなんとかかんとかいおうと、人は理屈ばっかいうんだから。関係ないんだよ、おまえ。これは大事なんだよね。おまえにいっているけど、自分にいいきかせているんだ。何か探しておかないと淋しいじゃないか。すぐ、年とるぞ、ばかたれ」

 

 寺田さんからはもっともっと素晴らしい話を聞きましたが、この文の全体を考えて、豪快な言葉遣いを伝えたかったのです。まさに一回しかない人生です。大事にしたい言葉です。

 

 大野五郎「靉光は、あんがいに人見知りするところがあるんだな。それがすぎると、じっと落ちついた深いつきあいになるんだが。当時、左翼運動がさかんなりし時代で、若者は食うや食わずで詩や小説を書いていたり、絵を志していたりしていたわけだから、靉光だってそういう思潮に染まったり、影響受けたりしたはずだが、それを何も表面に出さなかった」

 

 麻生三郎[靉光は戦争で死んだ。立体派を通過しなければ現代絵画とはいえないというような観念的なこれこそ様式的なアカデミックな非人間的な思慮のあさいものは彼にはなかった。彼があの「雉の静物」を描いていた時期に彼の仕事場を訪ねたが、その仕事場にはあの静物と同じような鳥の死骸がつるしてあって、その辺に彼の対象物がころがっていた。(略)おそらく彼は彼の作画と同じように生きていたのだろう。](『絵そして人、時』より)

 

 寺田政明「(詩人の)小熊(秀雄)さんは詩を書くために、真に肉体を磨りへらし、人間の生ける美を感激して唱い、貧しい人の詩や、不幸な人がなくなるような詩を書いていた。

 

 或る日三十号ぐらいの絵具の厚くなった自画像を、さびついた青龍刀で切りつけ破った。私は驚いてとめたが、手をはなさなかった。