日本美術会のアイデンティティー問題


ジェスティー・ジャスティン

一般的に戦後日本美術史研究において、日本美術会とは、日本共産党の大きな影響下にあったため、トップ・ダウン型の硬直化した組織であり、古いリアリズムを唱えた集団だと思われている。私は、おそらくそれは共産主義に対する揶揄や偏見によってかたちづくられたイメージだろう、という直感を抱いていた。そして、実際に『美術運動』を読んでみて、この日本美術会が、組織としてはむしろ非常に柔軟で、常に揺れ動いてきたことを知り、大きな驚きを覚えたのである。そうして、今のところ、日本美術会は、一つの組織というより、複雑な複合体だと考えたほうがいい、という仮の結論に行き着いた。
  もちろん、そのように渾沌とした実態に対して、日本美術会の内部でも多くの不満を抱えていた。例えば、日本美術会の各地の支部のなかには、上層部に対してもっと強いリーダーシップを求めていたところもあるし、その逆を求めていたところもある。アーティストのなかには、創作方法についての議論を求める者、よりはっきりした美術運動としてのアイデンティティーを渇望する者、あるいはそのアイデンティティーの不在こそがアイデンティティーだと主張する者などがいて、それぞれが『美術運動』の誌面をにぎわした。この組織は、あまりにも多様な人から成る複合体で、結局のところ一つのアイデンティティーを持てなかった組織だ、といってもいいだろう。逆に言えば、一つのアイデンティティーをずっと持てなかったというアイデンティティーを守りぬいたところが興味深い点である。
日本美術会が正式的に立ち上がったのが1946年であり、1947年1月に同会の機関誌として『美術運動』が創刊された。この創刊号では、創刊の言葉の他、中心的に取り上げられていたテーマが二つあった。一つは自由出品展の準備で、もう一つは日展の問題である。すなわち、戦後、日展という官展の復活を背景にして、「アンデパンダン」という呼び方がまだ一般的に使われなかったうちから、アンデパンダン形式の展覧会が、これからの美術家の新しいあり方を模索するための手段として、日本美術会の設立と切り離せない根本的な要素だった、ということがうかがえる。

まず、アンデパンダン展の創設時に、どのような考えや期待が働いていたのだろうか。このときの『美術運動』を見ると、アンデパンダン展は、日本近代美術史の中で生じた数多くの問題を解決するための鍵として考えられ、期待されていたことが分かる。その問題の一つは、日本の社会におけるアーティストという立場の弱さであった。例えば、「美術展は美術家の手で自由出品を準備しよう」という記事のなかで、「多くの美術家は生存のために官展にしばりつけられ、場当たり的製作態度が助長された」と書かれてある(創刊号、2頁)。これが意味するのは、それまでアーティストたちは官展という権威に過剰に頼りすぎたことであり、結局、それはアーティストたちにとっての自由を失わせてきた、という指摘である。
戦後直後、この状態を解決するにために、日本美術会の中からいくつかの提案が登場した。まず一つは、美術家の生活を保証する美術家組合というものである。次には、常設美術館の設立である。そして最後に、アンデパンダン展の開催が求められた。アンデパンダン展の開催によって、封建性のなごりを示すような、画壇における派閥的な競争の関係を崩すことができると考えられていた。既存の二科会などの公募団体は、こうした派閥を生み出す点において、日展と変わりない存在だとみなされた。「自由出品展宣言」という記事では、「封建的師弟関係、それによって起きる派閥関係等を抑制し、美術家の自由を広め高めるには是非とも美術家各自の良心を責任においてのみ選ばれ、他の何人によってでも制約されない自由出品展を必要とすると信ずる」と述べられている(2号、2頁)。

煮詰めれば、そしてわたしの言葉に返っていうと、日本美術会における初期の期待は、美術家が自由になれる、広い空間を作るということであった。生活の危機はその空間を脅迫するから、その危機から空間を保護しなければならなかった。派閥によって生じる狭い上下関係に頼る評価もその空間を歪める可能性があるため、完全に上下関係が存在しない空間を守らなければならなかった。こうした理念のうえにおいて、日本アンデパンダン展は理想的な空間だったと言ってよい。後になって、この理想的なスタンス自体が批判対象へと変わってゆくのだが、その設立当時はかなりはっきりした価値観の表明だったのである。
 しかし当時、日本美術会の中でも、色々な意見の対立があり、それらが一致していたことはほとんどない。それどころか、この中では多様な意見が常にぶつかり合っていたような印象を受ける。例えば、アンデパンダン展はどうあるべきかというテーマに関するアンケートの回答のなかで、様々な意見が出てきていた。そのなかで、岡本唐貴は、「積極的意義がない」という見出しの回答で、「世界民主主義の新しい世界観の獲得とその藝術方法の具体的研究のための創作グループを強力に組織する」べきだ、と、やや批判的なことを述べていた。これに対して、難波田龍起は、「もっともよい方法として新人画家のアンデパンダン展による前衛的な美術運動の展開が考えられる」と述べていた(2号、2-3頁)。対照的な意識を持った二人の画家であるが、二人とも、完全にオープンであるはずのアンデパンダン形式の展覧会を越えて、極めて先端的な創造の場、もしくは組織を目指すことに重点を置いていたことは注目に値する。
やがて、日本美術会という組織に関する議論自体が大きくなってゆく。特に、1954年と1955年に、日本美術会のアーティストたちや地方支部から、この会の方針やアイデンティティーをもっとはっきりすべきだ、と要求する声が多くなった。さらに、こうした提起をめぐって多くの議論が起き、様々なかたちで1950年代の終わりころまで続くのである。『美術運動』の誌面自体もこの議論をめぐる、会の複合体的な様子を表すものである。1953年までは、いくつかの例外を除けば、『美術運動』はB4の表と裏の2頁もしくはB4開きの4頁の構成で、手書きによる活字で印刷されており、レイアウトは新聞を思い起こすものだった。ほとんどの場合はいくつかの作品の写真もあった。しかし1953年の半ばから、急にガリ版になり、その後、号によってページ数も構成も大きく異なるようになる。同時期、国民美術というキーワードが登場し、誌自体の様子以外に証拠がないものの、当時の共産党の分裂とその方針変更に関連していると考えられないことはない。党の分裂と過激化に対して不安を覚え、実際につながりがあるかどうかを別にして、会費を払わなくなる人が多くなったことも原因だったと推測する余地がある。

揺れ動くのが誌の構成のみではなく、編集方針にも及ぶ。同じ1953年から青美連(青年美術家連合)を代表する戦後に活動を開始した世代の若い画家と評論家の声が表に出て、時間が経つにつれて編集方針をリードする役割を獲得する。これらの人達はリアリズムとアヴァンギャルド、美術運動と政治運動に関して、上の世代と異なる考え方を示し、日本美術会のアイデンティティーをめぐる議論をさらに深く突っ込んでいく。この議論は、組織論を越えて、しばしば制作論に展開していったことが重要である。特に、世代の若い画家達は、日本美術会が美術家の集団である以上、美術の制作に関して何らかの主義や立場、もしくはそれを取り上げて議論する批評活動の場が必要だ、と主張していた。尾藤豊、池田龍雄、桂川寛、中村宏らがその動きの先端にいたと思われる。例えば、1957年1月号の座談会の中で、桂川は、次のように述べている。「われわれの仕事は政治とちがって直接的についての妥協ということはない。だから完全に同一の創作方法、によって集まるのでなければ統一的な芸術運動ということにはならないのだ。だから日美を芸術運動として考えてゆくのは結構だが、あくまで組織の統一と創作方法の統一ということを区別して考えてもらいたい。」すなわち、日本美術会は一つの共通の制作理念の探究によってできた組織ではない、と桂川は批判していたのである。針生一郎も同様のことを指摘し、「日本美術会が多種多様な方法、立場、思想にたつ多くの作家を抱えている現状は、芸術運動体としてきわめて困難な条件だ」と述べていた。こうした多くの批判を受けながらも、結局1960年代に入っても、日本美術会は、統一の見解をまとめようとしなかった。
 こうした批判のなかで、日本美術会は、プロもアマチュアも、リアリズムもアヴァンギャルドも、写真、漫画も(はじめは生け花、写真も)受け入れてきた。しかし様々な立場から期待されつつ同時に批判されながらも、結局、理想的な空間としての存在それ自体をアイデンティティーとして、守り続けてゆくことになったのである。

 

(編集協力:足立元、宮田徹也)