東日本大震災 福島、宮城、ボランティア活動レポート


若 い中川氏は、ヴァイオリンを弾くという特技を持っていますが、美術も好きです。アンデパンダン展やグループ展を何回か見てもらいました。東日本大震災の後 の東北へ2回にわたってそれぞれ一週間のボランテイアへでかけました、貴重な経験と思い文章をかいてもらいました。(編集部O)


『謙虚に、変えられる未来に向かって一歩ずつ』中川 隆

1、自分のためのボランティア

 

先日の、南相馬(福島)、南三陸(宮城)でのボランティア活動の感想を一言で言わせていただきます。『被災された方の眼差し、生き様に啓発を受け、自分の人生が豊かになった』ということです。自分の人生ですから、全ては自分のための行動です。また、被災された方に対して全く社会的な影響力のない私ごときが言わせていただけるなら、『頑張らず、どうぞあきらめることを選択肢に入れてください』という意見です。被災された方を励ますなんて恐れ多いことは、同じ人間である私にはできません。私に、突然、家財産、仕事どころか、肉親をあまた失った人達の気持ちが分かるわけがないのです。『頑張れ』とか『頑張ろう』とか、『少しでも励みになれば』とか言う外部の人間の安易な言葉は、私には違和感
を覚えます。被災された方たちは、既に、私の数千倍頑張り、数万倍の筆舌し難い苦難に直面しているわけです。
    宗教学者の山折哲雄さんが、現地を訪れ、おっしゃっていましたが、『地獄絵図のような瓦礫の山に朝日が差し、遠くの島影が…(略)全く美しい。』つまり、自然は、残酷なまでに、震災に動じていません。これは、現地で私も感じました。鳥、蟹、草花、他の生き物は、全て、元気で、何事も無かったように普通の生活を営んでいるように見えます。とても逞しい!宮澤賢治の言うように、人間は、この大自然の中で己の大きさを知らなければなりません。
 
2、あきらめからの出発
   
  『諦め』という謙虚さから、『感謝』や『開き直り』の活路が生まれると思います。偶然に、自分が、今、生きていられるということ。多くの動植物の犠牲を強いながら、他人や過去の先祖たちのおかげで、今、それぞれが、息をすることが可能になっているのです。また、失ったものは、戻りません。タイムマシーンは無いわけです。生きているだけ丸もうけだと思い、人生を楽しむしかないでしょう。セネカやヘレン・ケラーなど過去の偉人達も、『多くの苦難を経験した人ほど、豊な人生を送れる』と、同じ内容を言い残しています。『苦難を喜べ』とも言いますが、そこまでは、今の人間には酷でしょう。   
  瀬戸内寂聴さんが、『亡くなられた方は、我々の代わりに亡くなってくれたと考えた方がいい』とおっしゃっていました。我々は、自分の人生を豊かにするためにも、亡くなられた方の分まで生きようと考えざるをえないでしょう。
 
3、託すのでなく自分が
 
 昨今、『…やはり、子供達は希望です!』と著名人たちが、口をそろえて発言し、学校への慰問を繰り返していることが気になります。
 南相馬の避難所で、一ヶ月以上に渡り、新潟から駆けつけ、休み無く無給労働をされていた鈴木さん30代アスリート。『70代、80代のお年寄りが、気力を失い、日に日に衰弱している!一番心配だ!』とおっしゃっていました。
 未来を子供達(他人)に託すのは、楽なので私もそうしたくなりますが、それは、年齢を言い訳にした大人たちの『逃げ』だと思います。子供達(他人)に希望を託すのでなく、自分達、大人(高齢者を含め)が、今、目の前の世界を変えていくべきです。世界は、子供達だけのものでありません。全ての世代が、主役を担い、社会的弱者を労れる気概がほしいものです。

4、現地の話
 
  渋佐さん20代後半。自宅が全壊しているのに、また、職も失っているのに、叔母の家から、当時、貴重だったガソリンを使いながら、他人の家屋からの泥だしボランティアを続けていました。しかも、自分からは、そんな境遇を言おうともしません。
  熊谷からのボランティアの荒さん20代前半は、釘を足で踏み抜きながら、会社の休日を使い、無給の肉体労働に汗を流していました。そういえば、三浦さん50代も、神奈川から、ガソリン代、高速代自腹で、週末だけ駆けつけましたっけ。遠藤さん50代も、放射能雨を怖がる時期に、カッパを着る余裕無く、雨の中、屋内退避区域で物資配達に駆けずり回っていました。全国から配送されてくる物資を含め、被災地には、書ききれない程の、数え切れない程の善意が集まってきていました。
 佐藤さん一家。自分達が被災者で、物資が無いのにも関わらず、我らボランティア達におにぎりを、また、冷たいコーヒーを出してくれました。冷蔵庫も電気も無いのにどうやって冷やしたのかに驚き、今もってなぞです。押入れから跳びだしてきた可愛い蟹の生命力には脱帽しました。感動!
  太田さん。足腰弱い高齢なのに、傾き、今にも崩壊しそうな極めて危険な家屋で、泥に浸かっていない洋服を集めていました。初対面の我々にも、笑顔で接してくれる骨とう品好きの優しいお爺ちゃん。本当に、大切な骨とう品たちも、メチャクチャになってしまいました。
  地震直後、海の男たちは、津波から自分達の船を守るために一斉に沖に向かいました。帰って来られたのは、半分もなかったそうです。
  地域の避難場所になっていた鹿島みちのくスタジアム。津波が来たとき、客席に登れた人たちのみ助かりました。登れた人たちは、逃げ遅れた100~200人?位の人たちの最期の修羅場を見ていることしかできませんでした。そして、引潮で、多くの遺体が、ネットに引っかかり残されました。それは、漁網にかかる魚の状態だったそうです。
   
5、終わりに


  震災から三ヶ月近く経ったあとでも、被災地では、ふとしたキッカケで抱き合い、涙を流す人たちが多かったです。また、連日、数台のヘリコプターが遺体捜索のために海上で轟音を立てている現実が、生ぬるい風の吹く東京に暮らす私には、異様に感じられました。
 四階に打ち上げられた車や二階に引っかかったぼろぼろの大きな船。一言で言うところの、『無い街』 この絶望を目にしたときに、やはり、私の中で、『頑張ろう』という言葉は、出てきませんでした。現実の結果を、謙虚に享受し、変えられる未来に向かって、真摯に一歩ずつ、動いていくだけです。
  被災された方たちは、本当に、同じ人間かと思うほど、私より境涯が格段に高く、大げさではなく、神々しくさえ思えました。被災地の方々には、本当に良くしていただき、頭が下がるばかりです。本当に、お世話になり、お礼の言葉も見つからず何をどうしていいのか考える日々です。

防災対策庁舎[ 南三陸町]
防災対策庁舎[ 南三陸町]