絵画的抵抗と二重の挫折


池上善彦

すぐ連想されるように、この表題は吉本隆明の「芸術的抵抗と挫折」を初めとする一連の戦争責任に関する文章からヒントを得ている。吉本の意図が戦争責任の追及にあるだけではなく、戦後責任の方に重点を置いてその責任を追及したものであることは、今日よく知られていることである。
 しかし、この二つの責任は吉本のみならず、1955年以降の多くの芸術家も共有していた問題であった。事実、「抵抗と挫折」とは1959年に桂川寛、尾藤豊、中村宏というルポルタージュ絵画を担った画家たちによって書かれた戦後美術史の素描の表題であった。私はこのエッセイにおいて桂川寛を中心として、主に50年代中盤から後半にかけて展開された、いわゆるルポルタージュ絵画の誕生とその挫折の過程と意味を探り、50年代、特にその前半の思想的意味とルポルタージュ絵画の本質に迫ってみたい。

桂川寛 小河内村
桂川寛 小河内村/1952年 油彩・キャンバス/ 板橋区立美術館所蔵 

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 1949年、作家の安部公房等と共にアヴァンギャルドを標榜する芸術家集団「世紀」参加し、翌年読売アンデパンダン展にみずみずしいシュールリアリズム 的作品「開花期」で中央にデヴューした桂川寛は、文化工作のため労働者に学ぼうという志を抱き、京浜工業地帯の、当時絶頂を迎えようとした労働者のサーク ル運動に飛び込んでいき、労働者と共に詩のサークル雑誌を作る。その最中、コミンフォルム指令以降の日本共産党の戦術による山村工作隊に参加し、小河内ダ ムに赴くこととなる。これは日本共産党の武装闘争路線の下、未解放であった山村を革命の拠点とし、ダム建設に反対し、さらには朝鮮戦争を闘っていたアメリ カ軍の基地であった横田基地への電源供給を阻止するという計画であった。
 この小河内へ参加した画家たちには桂川の他、尾藤豊、勅使河原宏、山下菊二など後のルポルタージュ絵画運動の中心的メンバーが多数いた。この闘争はしか し、政治的には完全に失敗であった。しかし、これへの参加は桂川にとって決定的であった。この時の経験を彼は何度も綴っている。桂川の50年代の、この闘 争を中心とする文章は正確無比である。絵画に比べ、彼の文章は正当に評価されてきたとは必ずしも言えないが、単に回想として貴重なばかりでなく、50年代 を絵画を超えて理解しようとするとき、彼の書いたものはもっと重要視され、評価されてしかるべきだと考える。
 それはともかく、ここで重要だと思われる点を拾い出してみよう。
 まず最初に、彼にとって山村工作隊の経験はまず政治体験としてあったと言うことである。彼は芸術家として参加したのではなく、政治活動家として一義的に は参加したということだ。したがって、後にルポルタージュ絵画などに結実するこの時の体験は、闘争が徹底的に敗北に終わった後、徐々にその体験とその時の 思索を再構成する過程で次第に整理されていったものである、ということだ。芸術的意図を持って参加していない分、生の体験を反芻しながら芸術的に組み替え ていく余裕がそこにあったのである。この小河内ダムの体験からさらに京浜の労働者たちとの交流の体験が再構成されていく。
 彼の回想から、当時何を考えていたのか、抜き出してみる。農民の顔の観察による「表情の問題」、版画新聞の作成と配布による「伝達の問題」またそこから する日本の大衆の美意識の伝統の問題、農民の生活様式と生活用具の観察による「形態の現象学」、封建村落に浸透する近代的大工業のメカニズムにおける「新 しい風景画論」。あるいは「鉄線に囲まれたダム飯場の極度に抑圧された生活における、疎外の“状況の絵画”の展開」、「貧農の生活形態の中に戦争のメカニ ズムと、イマージュをたかぶらせるモンタージュの意識」、などがメモとして書き抜かれている。
 これらは、今も残されている「立ち退く人々」を初めとする小河内村のスケッチ、そして「小河内村」という作品からもその具体的形象として、うかがうこと のできるものである。さらに、尾藤豊、そして有名な山下菊二の「あけぼの村物語」などにも濃厚にうかがわれる傾向である。このことは上記の感想はただ桂川 一人のものではなく、集団で討議された、あるいは共有された思想であったことが分かる。
 小河内で得体の知れぬ民衆にぶつかって挫折したことは決定的だったのである。この時の体験の再構成の過程で、彼は自らの表現の追求と共に、労働者の表現 自体に自らを見ていこうとする。アンデパンダン展に出品される夥しい数の労働者の作品から、そこに見られる「大胆な対象の構成要素の本質を抽象していく表 現方法」を見出していくのだ。この本質の抽象こそがルポルタージュ絵画の本質をなすものである。

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 山村工作隊経験のもう一つの重要な点は、これが彼にとって戦争であった、ということである。革命への参画が一種の戦争体験であったことは繰り返し語られている。それほどの激烈な体験であったのだ。つまり、彼は二度の戦争を体験したことになる。
 しかし、画家として戦争体験するということは、何を意味するのか。それは戦争画と切っても切り離せない。しかし戦争は描かれなければならない。桂川はま た執拗に戦争画について論じた画家であった。彼にとって、戦争画を描いたかどうかはまったく問題ではない。描いたかどうかが問題なのではなく、戦争をどの ように描いたかが決定的に問題なのだ。つまり、真の戦争を画家が描いたかどうかなのである。彼の見るところ、夥しい数に上る戦争画の内、真に戦争を描いた ものは皆無である。真に戦争を描くとは、戦争の本質を描くことである。真の戦争の姿を描き出し、それを内側から否定すること、つまり戦争を描きながら、戦 争を否定すること、それが彼にとって真の抵抗の絵画であった。そのような戦争画が一枚もないということが、絵画にとっての挫折なのである。
 チャンスは再びめぐってきた。彼にとって戦争は二度目であった。思想家としてではなく、あくまで画家として、真の戦争画を描く機会が到来したのだ。しか しそれはどうやって描けばいいのか。モダニズムは元よりあてにはできない。リアリズムがその基調となるべきであるが、それはほぼ全ての戦争画の基調となっ ている自然主義と区別が難しい。
 そしてその答えは小河内村の体験と、それを再構成する過程にあった。決して戦争画を生み出さないような絵画の思考と表現には自然主義とは違うリアリズム が必要であり、そしてそのリアリズムさえをも超えていこうとする労働者たちの筆使い、である。その成果は1952年の「ニッポン展」を初めとして、次々と ルポルタージュ絵画として集団をなして発表され始める。
 だから、こうして生み出された絵画は戦争画であり、しかもそれらは真の戦争を描いた、抵抗の絵画でもあったのだ。果たして真の戦争画、つまり抵抗の絵画 は描かれた。戦争中決して描かれなかった抵抗画は十年遅れで描かれたのだ。しかし、十年遅れの抵抗画は抵抗画として、また真の戦争画として評価されたであ ろうか。一度目の抵抗と挫折を踏まえ、二度目の抵抗は成功したであろうか。

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 1955年の日本共産党の六全協大会で、それまでの路線は否定され、美術会では自然主義を基調とする社会主義リアリズム論が再び隆盛を得た。二度目の戦 争は否定され、自然主義が復活したのだ。そして、この戦後責任を問い詰めようとする意図を持って、吉本隆明の一連の論考は発表され、ルポルタージュ絵画に 参加した画家の多くも、また桂川も吉本の議論に期待していた。
 この議論は、戦争責任と戦後責任を重ね合わせることで、両方ともその責任者を葬り去ろうとする意図を持っている。その限りでは、桂川等との意図とも重な り合う。しかしこの論は、戦争責任と戦後責任、戦前のプロレタリア美術論と戦後の社会主義リアリズム論の類似性を指摘するのに性急で、それは本質論にとど まり、形式と内容との関わりを見抜けなかったのではないか、と中村宏は指摘している。
 確かに形式的には戦前と戦後の方法論は類似している、しかしそこから生み出された作品はまた別の質と次元を確保しているのではないか、と中村は問うてい るのである。しかし戦争責任と戦後責任をぴったり重ねて否定しさろうとする動きは圧倒的であった。それは現実政治としても新左翼の登場と重なり、実体を持 つものとして感受されていたこともその勢いに加勢した。
 言葉のロジックのみで追っていくと、二つの戦争の間に差異を見出すのは困難であるが、その決定的な体験と思索は作品に刻みつけられているはずだ。した がって、作品そのものを検討し、作家は現場から発想しないと、何もなかったことになってしまう。このことを中村宏は今や有名なフレーズとなった、「タブ ローは自己批判しない」という表現で表明した。
 事態は中村の危惧通り、二重の否定の中で進行していった。桂川たちの抵抗は抵抗として受け取られる基盤を喪失していった。戦争中に抵抗画を描くことが出 来なかった画家たちの汚辱は、再び十年後、挫折していった。それは正当に評価されることはなかった。桂川の十年近くに及ぶ体験と思索は無に帰したかに見え た。それは万人のための芸術と、私は他者であるというランボーの言葉の統一を胸に秘め、民衆の世界と世界観を決して全体主義に行かない方法で描き出そうと した貴重な試みを葬り去ることであった。
 しかし、タブローは自己批判しない。作品は私たちの前に投げ出されている。本質を語る言葉が有効であればあるほど、作品は遠ざかっていく。作品とは具体的な行為であり、現実を不意にうち破り、自明なものを切断する契機なのである。

参考文献
桂川 寛  『廃墟の前衛ーー回想の戦後美術』 2004年  一葉社
「戦後美術の創造的主体をめぐってーー「移行期のヴィジョン」より」   『美術運動』 1959年58号
「日本美術の土台はどこから変わり始めて・・・・いるか?」    『美術運動』1954年 6月号
中村 宏     「不審の『自己批判』」 『美術運動』1957年53号
尾藤 豊+桂川 寛+中村 宏    「抵抗と挫折の記録」 『形象』4号

桂川寛 立ち退く人々
桂川寛 立ち退く人々 /  1952年 鉛筆・インク・紙 / 板橋区立美術館所蔵


桂川寛氏は10月16日お亡くなりになりました。87歳でした。
氏の芸術精神、作品を思い心より哀悼の意を表します。