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働く民衆の心の詩 生誕100年 吉田利次作品展に寄せて

日本美術会会員 坪井功次

 社会を見つめ時代に生きる人間を描き続けた吉田利次の生誕100年を記して作品展を開催した。その足跡を追うことで、今、不穏な時代に生き、創作する私たちへの問いかけになれば、との思いがあった。

 会期は2017年10月から翌年3月までテーマ毎に大作を中心に展示した。開催期間中でもあり、ここでは吉田の歩みを振り返ってみたい。

 大阪府南部にある岸和田市は、海岸が埋め立てられ臨海工業地帯になっているが、昔は漁師町だった。町を挙げてのだんじり祭りは全国的にも知られている。吉田利次はこの町に生まれた。おそらく小さい頃から「とうりゃ、とうりゃ」の掛け声で町中に山車を引き回す男達の姿に心躍らせたのだろう。吉田の庶民的な感性はこの地で育まれたと思う。炭鉱労働者や漁師を描いた群像を前にして、心のどこかで“だんじり”の掛け声が響いていたのでは、という思いがする。

 

■召集、終戦、描ける喜びに

 1916年生まれの吉田が画家を志したのは16才。赤野塾洋画研究所、中之島洋画研究所に学ぶ。19歳で全関西洋画展に初入選を果たすが、日中戦争勃発により23歳で召集され暗号兵として中国に派兵される。当時について吉田は「人を殺戮するような事は避けたくて通信兵の試験を受けた」と語っている。それでも、部隊から部隊へと大陸を一人で伝令に走ることもあった。はたして、どの様な思いで戦地を駆け巡り、何を眼にし、何を感じたのだろう。

 27歳で除隊、終戦を迎える。「ああ、これで思う存分描ける」という喜びで一杯だった。

 戦後、鉄鋼所に勤めながら画家生活を始めるが、すでに29歳。しかし、この労働者としての体験がその後の創作活動に大きな影響を与えた。まず画家への道の一歩として二科展に出品。2回ほど落選の後、連続入選を果たす。

 この頃の作風は、二科展入選作品〔露地裏〕や佐伯祐三ばりの〔自画像〕でうかがえる。佐伯が描くような裏町を歩き回り、こんなのが描けたら死んでも良いぐらい惚れ込んだと言う。1950年に鉄鋼所を辞めて大阪市立美術館の美術研究所で、毎日モデル写生に通う時期がある。ビュッフェ風のヌード作品、スーチンに影響された〔ニワトリ〕などの作品が残っている。とにかく、好きな作家があると気が済むまで真似た。

 

■ 現実に根ざした芸術を求めて

 サークル活動が盛んな時代で、吉田が勤める鉄鋼所に日本美術会員のK氏が、設立後間もない会の宣伝を兼ねて移動展を開いたことがあった。この縁でK氏達の研究会にも参加して議論する。吉田は当時の創作問題について「美術の社会性という論点では全く?み合わず、僕はモダニズムの立場で、主観的に自分本位に考えていた。美術館におさまっている自分と一般の人達の間に壁のようなものを感じてはいたが、なかなか意識化は出来なかった。労働運動にも参加する労働者である自分と、モダニズム作品を描く画家としての自分が、どうつながるのか矛盾もあった。自分が納得いくような創作を模索するが、結局抽象になる。たまたま誘われてデモクラートという反画壇運動にも参加するが、結局新しい美術革新運動にはなり得ず退会する。本当に、もっと現実に根ざした芸術はどうあるべきかと思考する中で平和美術展の発想が出てきた」デモクラート美術協会については「当時日本画壇のあり方について、美術関係者の間では批判の声もあったが行動に至らなかった。それだけにデモクラートの運動は評価された。大阪、東京と同展が回を重ねるたびに主旨に賛同して参加者が増加した。権威主義に立ち向かったが、マスコミなどの評価が高まる事で逆に権威のようなものを感じて第4回展で退会した。しかし、デモクラートの会員の厳しい相互評価には少なからず影響された。私はデモクラートとは異なった方向に進んだが、その後の私の画家としての生き方を方向づける契機になったことを有難く思っている」と語っている。

 

■リアリズムをめざして

 吉田が呼びかけ人の一人となり、1953年に第1回平和を守る美術展(現関西平和美術展)を開催。「平和美術展をやれば、それにふさわしい絵が描けると、仲間にはそんな共通認識があった。しかし、思うほどにはうまく行かなくて“ホンネ(創作)とタテマエ(運動)”の間で、それぞれが随分と苦労を重ねることになり、去っていく者もいた」が、吉田は創設者の一人として頑張った。「タテマエ、タテマエでやっているうちに、それが習慣となってタテマエが当たり前になってきた」と述べているが、このホンネとタテマエを統一する創作がリアリズムだと思い至ったのではないだろうか。

 当初、吉田達は、平和美術展を創作運動の場として想定していたが、討議を重ねる中で、“美術家の平和運動”として発足した。吉田達は創作要求を満たすものとして、1955年に「リアリズム美術家集団」を結成する。この結成が吉田にリアリズム論を大きく発展させた。

 第1回リアリズム展には、〔工場地帯〕2回展には、〔網を運ぶ男〕〔浜の男〕、3回展では〔造船所〕が出品されて、明らかに今までの作風から大きく変貌した。社会主義リアリズムについての議論もあって、史的唯物論、唯物弁証法の哲学や社会科学などの理論学習と共に、あらためてデッサンや写生を始めている。

 この頃メキシコ美術展が開かれ、シケイロスの作品に遭遇する。「シケイロスは無条件に好きでした。とにかく好きと思ったら、それをやらずには気が済まない」リアリズム集団に出品した一連の作品に、強く影響が現れ、日本美術会の会員の間では、「大阪シケイロス」と評されていた。

 この時代、政治を風刺した銅版画や油彩の作品が多く、銅版画には、ピカソの影響が見受けられる。当時の日本の現実に立ち向かう試みは、表現方法の模索でもあった。

 1958年に最初の個展を開き、多数の銅版画を展示している。働く人や焼け跡の残る大阪風景の想いを込めた作品は評判がよかった。「銅版画は、デッサン力をつけるために始めた。お陰で随分と力がついた」と写生に取り組むことで、自然から学んでいたのだろう。

 リアリズム集団内に、リアリズム論を自分の都合の良いように曲げようとする傾向が出てきた為に〔造船所〕の作品を最後に退会。日本アンデパンダン展に出品し始めた時期である。「全国からの作品に触れて、自分の絵が実に弱々しくみえた」と語っているが、日本美術会への入会は、大きな刺激になった。

 

■ 三池闘争との出会いで

 1960年代、安保闘争、三井三池闘争と日本が大きく動揺した時代を迎える。三池闘争は、吉田にとって創作方向を決定づけ、数多くの傑作を生み出し、代表作になった。吉田自身も、創作の方向に確信を持てたと語っている。その前年には〔戦争と失業に反対する平和行進〕と題する200号の大作を描いた。三池闘争前から、炭鉱では既に首切りが始まっていた。この失業した人達の、福岡から東京までのデモ行進があり、吉田は尼崎から高槻まで同行している。それまでのデフォルメされた表現から、人物は自然に描かれ、人々と一体化して想いが伝わる。

 1960年3月と6月に、福岡の三池闘争支援に参加。生活と生きる権利を守るために闘う炭鉱労働者と家族達の出会いに大きな感動を受ける。6月には前回に取材してまとめた作品を現地で展示した。「俺が絵になっている」と炭鉱労働者やおかみさん達に喜んで迎え入れられた。煙草やカンパもあり、感激した吉田は、リアリズムとは現実をありのままに伝え表現する、働く人に寄り添って描くことだと確信する。炭鉱シリーズは三池闘争から1981年の北海道夕張炭鉱事故を受けて80年代まで続いた。余命1年と癌の宣告を受ける中で、集大成となる〔炭鉱の男たち〕を完成させる。この作品が絶筆となった。

 

■ 時代に生きる人間を描き続けて

 闘う炭鉱労働者、網をおこす漁師群像、ベトナム戦争など平和を願う作品、そして、身近な器物を描いた静物画。圧倒的な存在感を感じさせる作品群を残して、画壇に与せず名声を望まず、働く人々に寄り添い、現実を直視し真実を捉えようと、時代に生きる人間を描き続けた。

 事物の外観を捉えることにより、その内面を突き詰める事が写実と云われるが、吉田はその事物を取り巻く社会と時代性をも表現することで、物事の真実を捉える事を試みた、稀な作家だったと言える。