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ジャコメッティ展のこと

若山保夫

 今世紀、1945年、人間の歴史は第二次世界大戦という巨大な災厄・破壊・殺人となって人々に突きつけた。知識人と呼ばれた一部の人種、芸術家などと呼ばれた人々も含めて。 ジャコメッティ、サルトル、キェルケゴール、ニーチェなど、最も深いところで神なるものと関わっていた人種は、自らが歩いて行くべき道を自らが選びとっていくこと、生きる指針を見出すほかはなかったのであろうか。

 

 2017年6月14日~9月4日、東京国立近代美術館で、ジャコメッティ展があった。神の不在、そして自らの意識の不在、その表現なのであろうか。若いころから激しく私の意識の底を流れ、ジャコメッティに翻弄されてきた私は、少し前に発病した前立腺癌のためヨタヨタとしか歩けない体を引きずって、六本木まで、出かけてみたものである。新しく天井の高い会場は、素晴らしい展示もあいまって心打たれるばかり。高く抑揚の効いた照明と、圧倒する量の彫刻の群れは、太虚である。ヴォイド(void:宇宙の大規模構造において銀河が存在しない領域のこと。また、何もない、という意味)という言葉があるというが、孤立したものであるべき彫刻を大量に群れ立たせて展示、企画した意表をつく方法は、仏教の世界の金剛界・両界憂茶羅のようでもある。

 

 アジア・全ヨーロッパを巻き込んだ第二次世界大戦。世界中を巻き込んだ暴力、殺人、悪の限り尽くした人類に、神・未来など存在し得ようか。「実存主義」という宇宙を支配している神、それを信ずるが故の殺人、暴力、戦争であるのならば、美、調和などと言われる概念はありようがないのである。彼らにとって「ある」 という事は、否定としての行為の永遠の繰り返しであったとしても。

 

「これが人生か! 」

 よしそれならば更にもう一度、とつぶやきながら起き上がるほかはないのである。

 

 解答を得たようでありながら、真実は永遠に見つけられないのかもしれない。ギリシャ神話のシジフォスの事。神から与えられた仕事で、ある岩の塊を山のてっぺんへと運び上げる。するとその岩を待ち構えていた神が、再び崖下へ突き落とす、永遠に続く行為にも似て。

 

 「トカトントン」。高校を卒業して何年か過ぎたころ、太宰治の物語にこのようなタイトルの小編があった。それからというもの、ひとつの行為に集中している時に、どこか遠くの方からかすかに、トカトントンという音が聞こえてくる。それはだんだん大きくなり、意識全体を占めるほど大きく確かな音となり、おしまいには総てとなる。