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箕口博のこと

箕口百合子

全ての私の作品は、他をして、私に創らしめたものであって、私が作ったものではない。大きな力の、なすがままに

 

虫けらの墓や草木の塚

哀れないのちを惜しみ

ひとは墓のまわりに営み

塚の上に種をまく     

(「箕口博 3円のノート」より) 

 

箕口博は1923年長野県の飯山市の農家に生まれました。独学で彫刻を学び、32才頃から彫刻家として仕事を始め54才で亡くなるまで、わずか20年あまりでしたが、貧しくとも自分の思いを精一杯刻んで生涯を終えました。初期には、日展、二科展、日本アンデパンダン展,二紀展、現代日本美術展等の各展覧会に出品していましたが、1960年頃から「虚」と名づけた作品を作り、個展やグループ展で発表するようになりました。

 1969年4月から1977年6月まで、ともに暮らした箕口の生活のことなどをつづってみました。1959年飯山から東京に出てきて大森の従兄弟の狭い一部屋きりのアパートに同居させてもらい、東京で本格的に彫刻家として生活をやり始めました。大きな作品を作る時は友人の軒先等を借りて製作し、また知人に頼まれれば相手の家に逗留しながら仕事をしていた様です。

 結婚して一年後に子供が授かり、大森のアパートを出て葛飾水元に引っ越しました。ねぎ畑のある三畳、六畳、小さな台所と風呂付の借家でした。子供が産まれたら生活はどうなるだろうと思っていましたが、箕口は「子供は自分の食い扶は持って生まれてくると田舎の年寄りは言っていた」と楽観していました。本当に子供が生まれてからの方がボツボツ仕事が来る様になりました。

 しかし展覧会をするための材料の木材を買うお金はありません。大家さんが「近所の家が建て替えるので、古い大黒柱とか、その他の木材をいらないか聞いているよ」と知らせてくれました。また「大木を切ったからいらないか」と声を掛けてくれる親切な人もいて、度々リヤカーを借りて取りに行っていました。そしてそのお礼に大黒様を彫り、差し上げたりしていました、軒先がアトリエであり、また家の前のねぎ畑を借景に出品作を並べ思索したりしていましたので、近所の人達に不思議がられることも度々ありました。

 展覧会が近づくと家の中も外も木片だらけ、決して声を荒げたり子供達を叱ったりはしませんでしたが、没頭していると家族の日常の生活時間に合わす事なく、木屑だらけのその片隅で家族は寝起きしている毎日でした。寒くても暑くても、仕事があってもなくても、何か彫っている時が一番落ち着く様で、とても木切れを大切にしていました。急須の蓋が壊れたらその蓋をすぐ彫り、仕事に使う道具にサイン代りに顔面を彫り、その時かたわらにあるものが材料でした。そういう時間が一番幸せだった様です。箕口は天気が良いと子供を自転車に乗せ、少し離れた水元公園に散歩に出かけるのが日課でした。働きにも出ないで、訳のわからないものを作っているので「何をしている人なの」と聞かれる事も度々ありました。

 共に生活したのは9年半位で彫刻の事は私は素人でしたけど、解ったことは嘘のない生き方でした。彫刻家としては短い年月でしたが、自分の信念を貫き、市井の人達の中で、友人達にめぐまれた生涯であったと思います。亡くなった後、残された作品を大切に思ってくださる友人、知人の方が手弁当で駆けつけてくださり、10回にわたり展覧会を開催することができました。特に作品集作りをはじめ、展覧会のたびにレイアウトをすべて引き受けてくださった四方功一、博子夫妻には大変お世話になりました。

 最後に滋賀県立近代美術館での「箕口博彫刻展」(1990年)に、文章を寄せてくださった、山口牧生氏のことばを一部分ですが引かせていただきます。

 「箕口博さんは稀有の人であった。その作品集を眺め、その日記を読むならば、そこにほかでもない箕口さんの宇宙が厳然と築かれていたことは疑う余地はない。

 箕口さんと親しく触れることができたのは68年小豆島(石彫)、69年秋田(木彫)の二つのシンポジウムにおいてであった。秋田では雨の多い夏であったが、高原の驟雨の中でツチをふるう箕口さんの姿が印象的であった。そのときの作品が「虚1969」である。ふたかかえもあるトチの大木を荒々しいタッチで削って広大な田沢高原の空間に屹立してゆるがなかった。

 その製作の現場に居合わせたことを思うと今もあついものがこみあげてくる。作品が一ヶの物体から解き放たれて、四方八方にひびきわたってゆく力を感じた。不思議な経験であった。環境彫刻などということがいいはやされるはるか以前のことだったのである。 箕口さんの作品には「虚」となづけられたものが極めて多い。それらは虚無の中にたたずむ人間存在のぎりぎりの姿のようでもあり、また朽ちゆく墓標のようでもある。

「箕口博さんのこと」山口牧生(彫刻家)より