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春の美術展ふたつ、戦後美術よりの光

小野章男

2017年春に二つの印象的な展覧会を見た。性格のあまりにも違った二つであったが、その中には戦後美術の良質なものが展示されていたようだ。それらの作品からなにを受け取ったか、それが豊穣な可能性なのか少し書いてみよう。そしてこの春、5月連休の最後には父の故郷で「御柱祭」を見た。印象的だったのでこれも付け加えてみる。

 

 3月の日本アンデパンダン展、(以後アン展と略)そこでは70回記念特別企画展示「春を待ち、戦った、激動の60年代美術」があった。60年代は戦争の記憶がありながらも、高度経済成長社会がはっきりしてきた時代、私も57年の生まれなので記憶は生々しい。美術界でもミニマルアート、つまり作者を特定しない無名の作品を志向する動きが出たが、表面的には多彩でアナーキーな動きがあった。テレビ等映像が人間のイメージを覆い、70年の万博では著名な美術家、音楽家も参加する祭りになった。私事で言えば公募展を初めて見たのは上野の旧東京都美術館で60年代最後の頃、アン展も壁いっぱいに飾られた作品を漠然と覚えている、具体的な作というと「バルトークに捧ぐ」という題の油彩が印象にある、立体派的な作品だったのでは。

 今回の企画展示は、一見美術の革命とは縁のない、地味すぎる56点。60年初頭から安保改定反対の動きがあり、政治と美術の問題は日本美術会、アン展で大きな渦となり、政治的な題材の作も多い。しかし作品を見て驚くのだが、外気に初めてふれたようなういういしい存在感がある。(実際、探し回りやっと押し入れから出て来たもの、久しぶりに光に当たった作もある?)光に当たり作品の独立した生命を起こしたのか、新美術館の人工的な白い塗料壁に飾られたキャンバス、簡素な木枠に暗い油の抜けた黒い絵の具、人間、動物、静物、風景などになり重い存在を低い声で主張する。

 印象的な大成瓢吉の「乳房」30号の作、横たわっている牛という家畜、動物を見るとき感ずる不思議な共感、熱。生命に命を支える乳房に焦点を与えている作者の目は豊かだ。乳房がまるで丸くなった根の玉のように張り付いているが、あのアングルのオダリスクの球形の乳房と双璧ではないか。こちらは腐植土から絡まって出てきた二つのアジアの根、そして巨岩を思わせる胴体、黒い頭部の形態は眼ににぶい衝撃を与える。美術出版社より1999年に発行の「大成瓢吉の空中散歩」と題された作品集には湯河原での大成の活発な活動が載っている。「アートはあなたの隣にある」と謳い、生活空間のなかで観る人との直接交流を図る「空中散歩館」と命名されたアトリエ、その中でのピアニストやダンサーとのパフォーマンス等が記録されている。壁には原色のオブジェや油彩が並び、これらの作品に共通する多彩なリズム、陽性の大きさを生み出たのは三十歳頃に描かれたこの「乳房」という作。この黒が始まりとはおもしろい。

大成瓢吉「乳房」油彩 147×98 ㎝
大成瓢吉「乳房」油彩 147×98 ㎝

 また西良三郎の「婦人像」も黒の印象的な作品だ。モデルは西夫人、戦前中国生まれ、その地で映画にも出演したという。戦後引き揚げてきた熊本で西の恩人海老原喜之助を中心とする文化運動に会う。二人の媒酌人は海老原だった。夫人は意思の強い、独立した人間として描かれているが、その画の色には感情の親密さがある。黒いセーターが画面大きく占め、背景に柔らかくおかれた白いタッチ、点描風なハーモニー、そして左右の手の動きが内的なドラマを起こす。具象の作としては代表的なもので、西も60年代を過ぎると抽象の作が多いが、そこでも古典的な格調があるのだ。素材への愛、世界への信頼が矛盾なく表現されたもののようだ。

 彫刻は運ぶのが難、小品しか出ていない。それを補うため何作かの写真が展示用ガラスケースの中にある。現物を見ることができず残念だが、アン展の回顧展に今まで出てこなかった箕口博の作もある。箕口博は本号に百合子夫人の回想文が掲載されているが少し紹介すると、日展や二科展等にも入選、1959年から1963年までアン展出品。公共からの作品依頼もあり、その時期注目された彫刻家であったが惜しくも54歳でなくなっている。その後作品集が夫人、友人の努力で出版され(私もその作品集を奈良の古書店で偶然見つけた)作品集には痩せているが精悍な表情と精神を見せる写真がのっている。熱心な支持者により死後も何回か展覧会があり、2010年には出身地にある飯山美術館で大きな展覧会が開かれ、多くが寄贈されている。

 ほとんど独学だったようだが、木彫は最初から完成度が高く、切れは鋭い。仏像、人物など具象作も多いが、抽象的というか象徴的な「虚」と題された作が代表作。それは木という素材の生々しさとともに、何ものか生まれでそうな緊張感が作品を取り囲む、空間を支配する。元大阪大教授大橋良介の1984年発行中公新書「時はいつ美となるか」にも少し晩年の箕口の姿が出ている。それにも増して彫刻家山口牧生の書いた文は、箕口の人と作品を語って余すところがない、もっと知られてほしい彫刻家である。

(沖縄摩文仁の丘の平和祈念公園には多くの慰霊塔が建つ。「埼玉の塔」も県出身者の沖縄戦、南方諸地域戦没者を弔う。ネット上でもその造形にいくつか評価する感想が載っているこの慰霊塔も1966年箕口が埼玉県より依頼され製作したもの、しかし作者の名前は表記されていない。いみじくも作者によって「負者の塔」と名づけられた慰霊塔。それにしても無名を恐れない作者と作品そのものにうたれる。)

 60年代を考えると、最近では千葉佐倉の国立歴史民俗博物館で10月からの[1968年,無数の問いの噴出の時代]と題した企画展示を見逃せない。1968年に特に激しかった学生運動等の社会問題を展示。概要では「それまでの組織的な問題設定、解決方式に対し「個」「私」の主体性を、それぞれに抱える問題を考え、社会にむけて「問い」を発することを重視する特徴を強く顕しはじめた1960年代末の運動に総合的な光を当てようとした」この着想はいいし、市民運動性の流れをべ平連運動などを通して追っているようだ。水俣公害問題など生々しい図や映像、リアルな動きを知らしめる展示もあった。しかし学生運動の記述はチラシ、冊子などよく集めて追うが、この運動にあまり興味が持てない者にはそこでの思想の劇、人間の姿も鮮明には見えてこなかった。

 

 しかしこのアン展特別展示の作品は小さくても光を放つ、歴史に転がった石、それとも星なのだろうか。

 その後5月はじめには長野の松本へ、松本城が観光の目玉であるが,市内大通りを歩き松本市立美術館へ行く。この美術館の建築も城の影響受け外壁が黒い。道に面して松本出身の草間弥生の巨大な野外彫刻がある、レジェを思わす造形だが、水玉のついた植物が空を抱え込むように繁殖している。草間の常設展示も館内にある。庭には強い外界の光が当たり地元職人向けの展示棟、食堂には子供づれの家族が中庭で遊んでいる。入り口すぐに横に広い階段が3階まで占める空間、階段を歩いていくと直接作品に会う気になる。吹き抜けのロビーが大きな空間の美術館が多かったが、この美術館は合理的に空間を使い外の光も壁面より入ってくる。日が落ちてくると必要以上の照明はない、ほの暗いひかりが美しい。

 

 

「堤清二 セゾン文化という革命をおこした男」という展示はこの美術館オリジナルの展覧会。堤が西武百貨店を継ぎ、70年代よりセゾングループのイメージ戦略で一大流通革命を起こし,その映像、ポスター、コピーが高度資本主義の日本を覆ったことは誰でも知る。それと共に堤は現代美術を積極的に紹介、文学、音楽などにも影響与える辻井喬という文学者でもある。堤は西武美術館をオープンするにあたり、陽の当たらない現代美術を取り上げ、その日常化という意図があったようだ。百貨店そのものを、街を歩く生活者のための空間にしたように。

 展示を見ていくと今回はもちろんポスター等もあるが、タブローとしてはセゾン現代美術館の所蔵が主で、西武美術館で開催した展覧会、クレー、ジャスパージョーンズなどもある。現代日本では宇佐美圭司,横尾忠則、中西夏之、辰野登恵子らの大作が飾られていた。遠近法、陰影法などを取り払った色彩の自立し説得力のある作品ら、その力には驚かされる。観る人をとらえ作品との間に濃密な空間が生まれ、定義できない力と運動が生まれる。しかしそれらの大作は今見るとベージュの壁、やや狭い展示会場の美術館に展示され、落ち着いた明快すぎる趣味のように見える。そこにはあのアン展で見た黒、素朴であるが壁に重く不協和音を響かすような黒、それはここにはない。

 現代社会の芸術がプロデューサーの時代といわれる、作者より作品を作らせる個人の、組織の力が大きいとしたら、堤ほど大きく作者に寛容な存在はないだろう。堤の実現しようとした思いは、経営で大きな力を振るい、最終的には経営から退いたとしても、美術館や劇場の空間で求めていた価値は実現したのか、芸術作品個々で実現し世界を豊かなものにしたのか。いずれにせよ濃密な時代にしか現れなかった物語、これからの時代はどのような芸術、プロデューサーを期待できるだろうか。

 堤の文学作品では、古事記を題材にした小説「ゆく人なしに」、陶芸家富本憲吉がモデルの家族と芸術、時代を探った小説「終りなき祝宴」が素晴らしい、そこに社会と個人の葛藤もよく表れている。

 

 時の波が重なり開いていく海路、作品というものも歴史というものに浮かんでくる小さな船のようなものだろうか。それは沈んだように見えてもまた浮かび上がってくることがあるかもしれぬ、またそれはひとつの方向へいくものでもない。

 松本に近く塩尻と辰野の間に小野という駅がある、松本に泊まった次の日は塩尻から辰野線に乗って小野の御柱祭(おんばしら祭、1300年以上の歴史があるという)へ向かう。それは7年に一度、社殿の四隅にあるご御神木を立て替える祭りだ。塩尻,辰野と行政区は分かれているが、隣接する小野神社、弥彦神社へ3日かけ、合わせて8本、17m位の木を曳行する。山から御柱を切り出す山出し、行列し柱を運び立てる里曳き,これによってただの木が神木になる。もちろんこの地方では一ノ宮の諏訪神社御柱が有名だが二ノ宮の小野神社は諏訪に次ぐ大掛かりな祭りで、一ノ宮の次年に行われる。ここでは製糸業も盛んであったので、あでやか華やかな衣装が、まつり最中に見ることができる。

 小野の駅に朝10時頃降りる、そして柱を運ぶ人達、ハッピをきた子供等と一緒に、外国人も多い観客と神社まで歩く。沿道は花飾、提灯で演出されている。神社には20軒ほどの屋台、飴をほおばりながら拍手と喝采の中、7,8人が神木となる木に乗って、澄んだ声で歌う、木遣り唄が響く。多くの土地を離れた人も集まった。田舎でも神社は別天地だ、広葉樹と落葉樹の混ざっている原生林が残っているのだ。陽がさす、緑の葉が微妙な諧調を表す、湧き水があるという池も重たい水を動かし、まるで人を誘っているよう。それに対して垂直に立っていく神木は光を求める、新しい時間が顕れていくようだ。

 空には雲が幾重にも重なっているが、その中を光が人を乗せながら垂直になる神木に、そして観客の群れに落ちてくる。空から見下す神にとって多くの人間の動きは喜びに満ちて、美に満ちているだろうか。そして、信を持ちたい、美しくありたいという人間の祈り、歓声が空の奥に届くことがあるだろうか。