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日本列島のアートの誕生と「ヴィーナス」

かわさきみきお

 日本列島の中央部、鈴鹿山系から琵琶湖に流れ込む愛知川の上流に、南北朝の時代に開山した紅葉で有名な永源寺がある。この京都五山の流れをくむ臨済宗の古刹の川を挟んだ山側、鈴鹿山脈につながる丘陵地帯の水田から、縄文時代の草創期から晩期にかけての遺構が多数発見され発掘調査が続いていたが、2010年の6月にその成果が発表された。

 その中で注目を集めたのは、およそ13,000年前の竪穴式建物から発見された「相谷土偶」と名付けられた1点の土偶である。高さ3.1cm、幅2.7cm、重さ14.6g、手のひらに乗るサイズのその黒っぽい塊には、頭部や腰から下はないものの、乳房と腰部の括れが明瞭に表現されている。土をこねて焼き上げたこのような簡素な様式の女性のトルソーは、これまでに類例のないものであった。

 縄文時代につくられた土の人形のことを土偶というが、13,000年前という縄文時代草創期後半につくられた「相谷土偶」は、一般に知られている、5,000~3,000年前の縄文後期から晩期にかけて全国でおよそ18,000点ほど発見されている土偶とは、全く違った文化背景から生まれたものである。

 後期旧石器時代と繋がる縄文時代は、およそ16,000年前から始まるとされているが、その草創期(16,000~12,000年前)には、竪穴式住居や土器と弓矢の発明が見られるものの、まだ村落を形成する定住化には至らない半定住の中石器時代である。縄文時代の後期から晩期は、定住化して村落が形成された新石器時代に入っている。

 現在のところ縄文草創期の土偶は、この「相谷土偶」以外には、鈴鹿山系の三重県側の粥見井尻遺跡から出土したものが2点確認されているだけである。その「粥見井尻土偶」の1点も、様式が違うものの女性を表現した小像であり(1点は破損していて頭部のみ)、時期的には「粥見井尻土偶」の方がやや早いとみられている。

 私はこのふたつの縄文草創期の土偶は、ユーラシアの後期旧石器時代に登場した「ヴィーナス」の影響を、何らかのかたちで受け継いたものであると考えている。

 

 

 

 先史時代の女性の小像を「ヴィーナス」と呼ぶようになったのは、1908年にオーストリアの後期旧石器時代の遺跡から発見された、およそ30,000年前の女性の小像を、発見者の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが「ヴィレンドルフのヴィーナス」と命名したことが発端である。

 後期旧石器時代のものを、ギリシャ由来の「ヴィーナス」と呼ぶのには当時異論もあったが、いまでは後期旧石器時代のものに限らず、先史時代の女性の小像に対して「ヴィーナス」の呼び名が一般化している。

 「ヴィレンドルフのヴィーナス」がどのような目的でつくられたものか、その起源や文化的意味などは、まだ明解な答えが出されていないが、しかしこの「ヴィレンドルフのヴィーナス」は、オーストリアの至宝であり、人類がアートを誕生させたモニュメントとしてウィーン自然史博物館にコレクションされている。

 「ヴィーナス」は、考古学上の発掘物としてよりも、多産・豊穣のシンボルを造形した人類のアートの誕生を告げる貴重な美術品として扱われているのである。

 

 以来この100年余りの間に、フランスからシベリアに至るユーラシア大陸の各地で多くの「ヴィーナス」が発見されてきた。それらの成果をふまえた考古学的な研究によって、40,000年前から23,000年前にかけて、後期旧石器時代のホモ・サピエンス・サピエンスが「ヴィーナス」の文化をもっていたことが徐々に明らかになってきた。 そしてこの「ヴィーナス」は、人類のアートの誕生と深く関係しているのである。

 

 およそ200,000年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは、70,000~60,000年前にかけてアフリカを出て世界の各地に拡散していった。大きくは、ふたつのグループがあったとみられている。中東からバルカン半島を経てユーラシアに拡散して、アリューシャン列島からアメリカ大陸に渡ったグループと、インドからスンダランドを経てオーストラリアに向かったグループである。

 最終氷期の時代(70,000~10,000年前)、気候変動による大型草食動物の移動が起こり、狩猟のためにそれらを追うようにホモ・サピエンス・サピエンスも移動したのではないかと考えられている。この人類の世界に拡散する移動は、イギリス人考古学者のブライアン・フェイガンによってグレートジャーニーと名付けられた。

 日本列島に彼らがやってきたのは、およそ30,000年前である。ユーラシアに拡散したグループは北と西から、スンダランドから海流に乗って北上したグループは南から、いくつかの波があるものの、それらのグループの一部がこの日本列島にたどり着いたとみられている。

 最近はDNAの分析研究が進んで、私たちの中にある遺伝情報を詳しく見ることができるようになった。それによると、日本人には2パーセントほどのネアンデルタール人由来のDNAが含まれていることが分かった。これはユーラシア経由でやってきたホモ・サピエンス・サピエンスが、グレートジャーニーの時代にネアンデルタール人と混血した痕跡である。

 

 ユーラシアに進出したホモ・サピエンス・サピエンスは、先住者のネアンデルタール人とテリトリーを分け合いながら、マンモスなどの大型草食動物を狩猟して氷河時代をサバイバルしていたとみられているが、一方のネアンデルタール人の方は30,000年前頃に絶滅してしまった。

  ホモ・サピエンス・サピエンスが絶滅を免れてサバイバルできた要因はどこにあったのだろうか。

 最近では、それがアートの誕生との関連で考察されることが多い。

 アートの誕生によって、人類が夢を共有することができるようになり、それが人と人とのあいだに深い精神的な結びつきをつくりあげ、人類を動物的な生態系から文化的な生態系に進化させたというのである。

 

 ヨーロッパの先史美術史において、後期旧石器時代に登場する洞窟壁画や「ヴィーナス」は、ホモ・サピエンス・サピエンスのアートの誕生を告げるものと考えられている。

 2008年にドイツのホーレ・フェルスの洞窟で発見された「ホーレ・フェルスのヴィーナス」は、40,000年前にウーリーマンモスの牙に彫られたもので、高さ6.1cm,、幅3cm、重さ33g、世界最古の「ヴィーナス」である。これは人が頭の中にイメージした裸の女性を表現した彫刻であり、イメージを三次元に物質化した見事なアートである。

手の平の「相谷土偶」のレプリカ(左)と 「ホーレ・フェルスのヴィーナス」(右)
手の平の「相谷土偶」のレプリカ(左)と 「ホーレ・フェルスのヴィーナス」(右)

 「ホーレ・フェルスのヴィーナス」と「相谷土偶」を比べてみよう。ヌードの女性を簡素に表現したその様式はまるで違っているが、豊かな乳房を強調しているところは似ている。大きさは多少違うもののどちらも掌に乗るサイズである。

 前者には性器もリアルに表現されていて、出産する女性を讃えているようにみえる。後者は上半身だけであるが、その豊かな乳房は母性を表現したものである。これらはおそらく母なるもののシンボルとしてつくられたものだろう。

 私が注目するのは「ヴィーナス」を手で握りしめることができるところである。母なるシンボルを握りしめて子供の誕生を祈る、そのような文化があったのではないだろうか。

 

 このような立体の造形物をつくるには、優れた立体のデッサン力と造形感覚が必要である。これをアート作品として見ても、現代のアーティストの作品と比べ何一つ遜色が無い。女性の裸像をこのように造形する能力、アートを誕生させる根源的な力を、これらのつくり手たちは持っていたのである。

 「ヴィーナス」は人類のアートの誕生を告げているのである。

 

 ヨーロッパのオーリニャック文化(およそ42,000~32,000年前)に登場した「ヴィーナス」は、30,000年前頃にそのピークを迎えるが、グラヴェット期中頃(28,000年前頃)になると徐々に見られなくなり、その後、ロシア平原とシベリアに「ヴィーナス」は移動したかのように現れる。ところが23,000年前頃にはシベリアからも姿を消してしまう。

 「ヴィーナス」はどこに行ったのか。 シベリアから日本列島に「ヴィーナス」がやって来たのかどうか、それを証明できるような直接関連する発掘物は、いまのところこの列島からは発見されていない。

 しかしシベリアから「ヴィーナス」が消えておよそ10,000年後に、日本列島に「相谷土偶」と「粥見井尻土偶」が登場したのである。

 

 13.000年前の日本列島は、ユーラシアで「ヴィーナス」をつくりだした後期旧石器時代とは違い、新石器時代の扉が開かれようとしている過度的な時期である。

 「相谷土偶」と「粥見井尻土偶」には、ユーラシアの「ヴィーナス」の影響が見られると考えているが、それはユーラシアの「ヴィーナス」文化の直接的伝播というよりは、母なるものが大地とより深く結びつくことになる新しい時代の「ヴィーナス」として、新たな時代の息吹とともに、一度消滅したものが、この列島に再誕生したものではないか、と私はみている。

 日本列島の「ヴィーナス」は、列島のアートの誕生と新しい時代の到来を告げている。


川崎三木男(かわさきみきお ) 1948 年生まれ。

美学校第1 期生。 コンセプチャル・アーティスト、鍼灸師、

パフォーマー、ヴィーナス研究家。