沼辺信一(蒐集家・研究家)
前衛画家として長く関西の美術界を主導した吉原治良(1905~1972)の蔵書から、戦前のロシア絵本が87冊も見つかった――遺品の整理にあたった芦屋市立美術博物館からそう聞かされて、意外さに思わず耳を疑ったものだ。この発見が端緒となって「幻のロシア絵本 1920?30年代」展(2004~05年)が催され、戦前の吉原とロシア絵本との不思議な因縁が明らかになった。同時にデザイナーの原弘(1903~1986)や画家の柳瀬正夢(1900~1945)の遺品にも多数のロシア絵本が含まれていることがわかり、戦前の美術家の間で、ソ連の児童文化への関心が共有されていた事実が判明した。
彼らの旧蔵絵本の刊行年は1930年代初頭に集中し、同じ絵本が共有される場合、エディション(何年刊行の第何版か)まで一致する。これは入手の時期と経路が同一であるためで、1932年4月、東京・神田神保町に開店したソ連書籍の輸入販売店「ナウカ社」がすべての発端と推察される。原弘は「ナウカ書店で新着本を見るのがたのしみだった」「私は夢中になって、40冊ほどを買い求めた」と回想しており、戦前のロシア絵本には、しばしばナウカ社のシールが貼られている。
当時の代表的な絵雑誌『コドモノクニ』を調査すると、明らかに特定のロシア絵本を下敷きにした挿絵がいくつも見つかった。とりわけ興味深いのが、同誌1933年11月号の目次を飾った一図である。花壇の手入れにいそしむ子供たちを描いた構図と画風が、前年にモスクワで刊行されたロシア絵本『私たちは働く』(1932年)の見開きとそっくりなのだ。人物のポーズや組み合わせは変えてあるが、それらも同じ絵本の別ページからの引き写しである(犬の形まで借りている)。
作者である前島とも(1904~1994)は、本誌前号で松山晋作氏が紹介されたように、1932年3月に結成された「新ニッポン童画会」の創設メンバーであり、松山文雄(1902~1982)や安泰(1903~1979)らとともに、「現実と密着した健全で明るい強靭な生活感情」を重んじ、「生々とした、活動力に富んだ、児童の生活の積極性に合致した」童画の創出を目指していた。
やがて前島と結婚した松山文雄の証言によれば、「ちょうどその時期にナウカ社にソ連からたくさんの絵本が入ってきましてね。この影響が大きかったですよ。前島ともなんかはその急先鋒だった」。
三年ほど前、古書店からロシア絵本を一括して入手した。ほぼ全冊の表紙か扉に「松山」の認印が捺されており、店主によれば、同じ束にあった葉書などから、すべて松山文雄に由来すると断定できる由。総数69冊のうち33冊が戦前の刊行だった。保存状態はおおむね良好で、大切に扱われてきた過去を偲ばせる。来歴がわかるロシア絵本としては、先述した吉原治良、原弘、柳瀬正夢のほか、翻訳家の光吉夏弥の蒐集が知られており、今ではすべて公的機関に収蔵されている。これらはまとまって売りに出た最後の一群となるだろう。
戦前の絵本を一瞥すると、マルシャーク詩、レーベジェフ絵の『荷物』『職場の表彰板』、チュコフスキー詩、コナシェーヴィチ絵の『大きなゴキブリ』のほか、工作絵本や動植物の絵本、子供の生活を扱った絵本、辺境の風物を描いた絵本、社会主義建設に関する絵本など、ジャンルは多岐にわたる。同様に幅広く蒐集した吉原治良の旧蔵絵本と16冊も重複している。1930・31・32年刊行の絵本が約八割(27冊)を占めるところから、入手経路はやはりナウカ社だろう。作風的に堅実なリアリズムを示すものが多く、同様にナウカ社で絵本を漁った原弘が大胆なデザインのものを好んだのとは対照的だが、それでも両者の旧蔵絵本には重複が5冊ある。
前島ともが熱心に学んで模倣したロシア絵本『私たちは働く』(エゴーロワ、ポレジャーエワ文、パミャトヌィフ絵、1932年)も含まれていた。松山文雄は1932年6月に治安維持法違反で逮捕され、2年8か月も投獄されていたから、この絵本の最初の持ち主はおそらく前島ともで、1935年の結婚時に松山家にもたらされたのだろう。保存状態が悪いのも、他の絵本とは異なる来歴を物語っているかもしれない。
松山文雄がこれらの絵本からどんな感化を受けたか、その痕跡を具体的に跡づけるのは容易でない。彼はフランスやドイツの絵本、欧米の諷刺画にも広く目を向けていたから、影響は自ずと複合的で、一目瞭然な実例を挙げるのは困難である。壺井榮の童話集『夕顔の言葉』(紀元社、1944年)の挿絵や、パンテレイエフ作・槇本楠郎訳『金時計』(二葉書店、1946年)の表紙絵などが、ロシア絵本に学んだ成果かと思われるが、この点についてはさらなる検討が必要だろう。
それにしても、二度の逮捕歴がある松山文雄にとって、ロシア絵本を手元に置くのは危険を孕んだ行為だったに違いない。仲間の安泰もまた1940年に治安維持法違反で検挙されるが、容疑はロシア絵本の所持だったという。官憲の厳しい監視の目や第二次大戦の戦火を辛くも潜り抜け、戦前の絵本が松山家に伝えられた経緯には、やはり強く胸を打つものがある。命がけのコレクションと呼ぶべきものだろうから。
最後にお目にかけるのは、古書店主から「同じ束のなかに、こんな切れ端が挟まっていました」と頂戴した絵本の断片(本体は失われ、表紙のみ)である。ユージンとエルモラーエワの合作『紙で、糊なしで』(1931年)がそれだ。図柄を鋏で切り抜いて折り曲げると、手作り玩具が出来上がるという工作絵本である。察するに、絵本の本体は実際に鋏で切り抜かれてしまい、跡形なく消滅したのだろう。それでも、魅力的な表紙だけは捨てられずに残された。
松山旧蔵のロシア絵本には「松山」の印が捺されているが、この断片にはそれがなく、代わりに表紙上部の余白に
TAIと読める文字がペンで書き込まれている。ひょっとして、これは安泰のサインではあるまいか(同様のサインが戦前の挿絵にある)。彼も「新ニッポン童画会」でロシア絵本への関心を松山夫妻と共有したが、その熱中が災いして、官憲に逮捕されたことはすでに述べた。その際の家宅捜索で、手元のロシア絵本はすべて当局に没収され失われたという。
この小さな紙片は、安泰が秘蔵したロシア絵本のうち、奇蹟的に逸失を免れた唯一の残欠であろう。それがなぜ安泰の手から離れ、松山家のロシア絵本に紛れて見つかったのか。こればかりは解けない謎としておくほかなさそうだ。
*安泰の逮捕時の状況について、坂本淳子氏のご教示を得た。
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