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日本美術会「戦犯リスト」をめぐる、いくつかの疑問(3)

北原 恵(大阪大学元教員)

(3)日本美術家の「戦犯リスト」をめぐる言説
①敗戦直後、リスト作成までの言説――GHQ の公職追放令
 リスト作成に最も影響を与えたのはGHQによる公職追放の動きであろう。1946年1月4日、GHQ は日本政府に「公職追放令」を通達し、追放の範囲をAからGまで7項目に規定して1948年5月までに20万人以上を追放した。美術家や文化人たちを怯えさせたのが、最後のG項「その他の軍国主義者や極端な国家主義者」である。それは「軍国主義政権反対者を攻撃した者。言論、著作、行動により好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者たることを明らかにした一切の者」とされ、次期首相と目されていた日本自由党総裁鳩山一郎がG項該当として追放されたことは、社会に大きな衝撃を与えた。その他、村山長挙(朝日)や正力松太郎(読売)ら新聞・雑誌の社長や、菊池寛、山岡荘八ら文化人も対象となった。1946年5月から極東軍事裁判(東京裁判)で審理が始まる。
 このような大きな社会の変化の中で、美術家を含めた表現者たちは敗戦後さっそく活動を始め、戦争責任をめぐっても新聞雑誌で論争が展開された。1945年10月に宮田重雄が朝日新聞に寄せた文章「美術家の節操」に端を発するこの論争では、鶴田吾郎と藤田嗣治が画家の戦争責任はないと反論し、続く伊原宇三郎と宮田が議論したことも(『美術』同年11-12月号)、よく知られている通りである。
 1946年、GHQが公職追放令を発令すると、美術界でもG項に誰が該当するのか、名前が挙がるようになった。美術評論家の荒城季夫は、『読売新聞』で「戦争中ファシズムに便乗して陸軍美術協会の牛耳をとつたその幹部あたりが該当するのではなかろうか」※5 と述べて藤田嗣治の名前を挙げている。雑誌『自由美術』(創刊号)では、「大観は文化戦犯者か」という挑発的な問いかけをして、横山大観のほか、児玉希望、川端龍子、藤田嗣治、中村研一の例に挙げた上で、G項該当者は政府機関に任せるのではなく美術関係者たち自身が調査委員会を作って審議すべきだと述べた※6。内田巌も雑誌『文化人』で日本美術会の結成と「美術界粛清委員会」について簡単に報告し、「戦犯として一人一人を問題にして美術家の行為を責めるのではなく」、美術界の組織に原因を求めた※7
 日本美術会の結成に先んじて、1946年1月には新日本文学会が、2月には日本民主主義文化連盟が結成されている。日本美術会に対してリストの提出を要請した文連は、当時のことをどう記録していたのだろうか? 文連内部の記録が残されているのかわからないが、結成後の活動は、『日本文化年鑑1948年』と『文化年鑑 1949年』である程度知ることができる。前者の「文連(日本民主主義文化連盟)活動一カ年半」では、文連の初期の活動のひとつとして「文化界戦犯人の追及」を挙げ、「新日本文化会、および自由映画人集団、民主主義科学者協会においては、それぞれの部門における戦犯人名簿が発表され、また講談社はじめ、いわゆる戦犯出版七社の出版協会からの除名を決議せしめるに至つた」※8 と述べている。だが、日本美術協会のリストについては、文連の活動においても、美術界全般を扱った項目においても全く触れられておらず、それは『文化年鑑 1949 年』においても同様である。文連自身が日本美術会の戦犯リストについて触れた記録が、現時点では見つかっていないからといって、ただちに美術会の戦犯リストを文連が正式に受け取っていないとは言えないが、「戦犯人名簿」を発表した所属団体があることを明記しているので、その扱いには何らかの差異があったのかもしれない。

船戸洪吉『画壇:美術記者の手記』 1957年
船戸洪吉『画壇:美術記者の手記』 1957年

②「戦争責任」論の再浮上と、船戸洪吉『画壇』
 ――1957 ~ 60年
 その後、美術界の戦争責任や戦犯リストについては、一旦議論が断ち切れになった感がある。議論が再浮上するのは、1957年だ。前年の1956年には吉本隆明の『文学者の戦争責任』が出版され、戦争責任の議論が再燃していた頃である。
 1957年1月、木村重夫の『日本近代美術史』が出版された。終戦から12年足らずの戦後美術運動を概観した最終章では、自身も準備に参加した日本美術会の結成や活動を紹介している。そして創立大会の緊急課題として取り上げられた項目として「美術界における戦争責任の追及」を紹介しているが、2回の会報発行や戦犯リストについては全く触れていない。「その後の経過をみると、じつさいは若干とりあげた問題が大きすぎ、その自己批判活動はやや烏耶無耶に終る感じだが、問題の重要性は今後にのこされている」※9 としている。 木村重夫の『日本近代美術史』が出版されたちょうど同じ頃、日本美術会内部でも「日本美術会10年の歩み」を振り返る座談会が開かれた。永井潔や井上長三郎、箕田源二郎らが参加したこの座談会では、井上の「戦争責任の問題はうやむやになっちゃったの」という発言を受けて、永井が、綱領の起草者が自分だったと述べ、次のように発言している。

 ――「戦争責任の問題ではしよつちゆうもめていて、各会がどんどん戦犯のリストを発表した。日美として戦争が芸術にどういう影響を与えたかというアンケートを出した。」「当時は戦犯問題で全体がわつとなつていて、自主的に各団体がリストをどんどん出していた。文連が戦犯のリストを作つてマックの手に渡すということに対しては日美は反対したんです。」「戦犯問題が本格的に議論されず、泥仕合になつてしまうから途中でおわつている。」※10
 このように10年間を振り返った座談会では、文連がリストをGHQ に渡すことに日美が反対したと述べるのみで、自分たちの作成したリストや7/5 付『会報』(第3 号-1)の存在については全く触れていない。
 これらの木村重夫や日本美術会の座談会に反論するかのような手記が出版されたのは、同年(1957年)夏である。毎日新聞の美術記者だった船戸洪吉の『画壇:美術記者の手記』である。同書には「消えた戦争画」の章が設けられ、リストについて次のように言及している。
 ――「新日本文学会や民主主義科学社協会、新日本美術家協会準備会など十三文化団体が中心になって、その該当者のリストが作られだした。横山大観、川端龍子、山口蓬春、藤田嗣治、宮本三郎、向井潤吉、猪熊弦一郎、伊原宇三郎など三十余名が、戦時中軍部と結んだ御用作家であり、意識的に戦争熱をかりたてたといわれ」た※11。そして船戸は、美術家の節操論争の経緯や、藤田嗣治を内田巌が訪問して日本美術会の戦犯画家指名を伝え、美術界での活躍の自粛を言い渡したという逸話を、生き生きと描写している。

菊畑茂久馬『フジタよ眠れ』1978年
菊畑茂久馬『フジタよ眠れ』1978年

 船戸の手記は、読者を惹きつける魅力を持っているが、リスト作成や典拠には間違いが散見される。日本美術会の作成した「自粛を求める者」のリストには、船戸の挙げる山口蓬春、宮本三郎、向井潤吉、猪熊弦一郎、伊原宇三郎の名前はなく、名指された画家は30余名ではなく8名である。だが、船戸の手記は、これ以降、菊畑茂久馬の文章「フジタよ眠れ」に代表されるように、戦争画や戦争責任をめぐる多くの論考の根拠とされ、広まっていくのである。それゆえ、船戸の1957年の手記『画壇』は重要である。
 その後も1957 年から60年にかけて、美術界の戦争責任に関する議論が続いた。1957年8月には、毛利ユリが木村重夫の『日本近代美術』を引用して、「日本美術会の戦争責任追及は、今後の発展、是正の美名のもとに、自己批判の回避、ふれれば痛む過去の傷跡との断絶によつて終止符をうたれ、解放感の酔いとスキ腹で、フラフラと第一歩を踏み出した。そして当然とはいえ、その第一歩から道を踏みはずしたのである」と述べ、辛辣に日本美術会と日本共産党を批判した※12
 針生一郎も当時、『美術運動』において戦後美術の再検討を唱え、日本美術会への批判を強めていた※13。そして1959年5月、雑誌『文学』で「戦後美術と戦争責任」を発表する※14。同論考では、敗戦直後の「美術家の節操」論争や、日本美術会発足当時の戦争責任追及の動きに触れたのち(リストには言及なし)、藤田嗣治が内田巌から戦犯画家の指名を告げられたため、パリ永住を決意したという逸話を紹介。一連の内田の動きを「一場の茶番劇」とする針生の語りは、その後、彼の戦争画論のなかでずっと引き継がれ、美術史の叙述においても大きな影響を与えることになる。
 ところで、1958年1月、『芸術新潮』で「芸術は政治に動かされている」というセンセーショナルなタイトルの特集が組まれ、「赤い団体・日本美術会」という記事が載った。共産党や日本美術会を批判する同記事の執筆者名は記されていないが、2年後に出版された針生一郎の『芸術の前衛』のなかに全く同じ文章が載っているので、芸術新潮の記事も針生が書いたことは間違いない※15

 これらの一連の議論に対して、日本美術会はどのように反論したのだろうか?1960年4月、箕田源二郎が雑誌『前衛』に寄せた論考は、日本美術会の立場を明言するものだったと思われる。箕田は、1950年代に日本美術会の事務局長を務め、反基地闘争や労働運動の支援も行う活動家だった。
 ――「戦争責任について内田巌が、藤田嗣治にあなたは戦犯であるから自粛せよという勧告文をつきつけたというようなことや、戦犯のリストをつくってよみあげたということがいわれたり書かれたりしているが、私が現在までしらべたところではそのような事実はないし、すくなくとも会の記録にはとどめられていないので、よけいのことのようであるが、一応ここに記しておく」※16 箕田は、戦犯リストについては、「そのような事実はない」し、「会の記録にはとどめられていない」と述べているが、「会の記録にない」からと言って、「事実でない」ことの根拠にはならないはずである。もちろん戦犯リストの掲載された『会報』3-1 についても、全く触れていない。なぜ、このように断言しなくてはならなかったのかはわからないが、この時点ではすでに、日本美術会の内部では、「事実でない=記録なし」という方針が決定しており、公式見解として『前衛』に発表したのではないだろうか。

日本美術会 『日本アンデパンダン展の25 年: 歴史と作品』1972年
日本美術会 『日本アンデパンダン展の25 年: 歴史と作品』1972年

③戦犯リストの公開――1970 年代
 1970年にアメリカから日本に無期限貸与の形で戦争記録画が返還されたのを機に、画家の戦争責任の問題は再浮上する。1972年3月、菊畑茂久馬が『美術手帖』で「フジタよ あなたは」を発表※17。戦争画を議論の俎上に上げた。この段階では、日本美術会や戦犯リストについての言及は一切ない。
 その2か月後、日本美術会が『日本アンデパンダン展の25年:歴史と作品』を出版した。「日本美術会のあゆみ 1」の執筆を担当した永井潔は、「戦争責任の追及」の項目を設けて、7/5付と7/10付の二種類の会報・第3号について説明している。総会で決議された戦争責任の追及であるが、性急なリスト作成の方針と日本美術会の間に「一定の矛盾」が生じたという。そして、「1946年6月3日現在において他の加盟団体はすべてリスト提出済みであったが、本会のみが未提出であり、当日の文化連盟の粛正委員会においては、本会代表が連盟脱退を辞さないと発言するほどの激論が行われた。結局本会も6月20日までにリストを決定して歩調をあわせることに妥協したが、その後、文化連盟の方ももっと慎重に審議を継続するということに方針が変更された」※18 と、経過を説明している。
 二種類の『会報』については、「この間の事情は、日本美術会々報の3号が7月5日付のものと10日付のものと2種類発行されていることに現れている。7月5日付のものは、文化連盟に提出した6人の官僚軍人ジャーナリストと8人の美術家の名を報告しているが、10 日付のものは、文化連盟の方針が変ったことを報告し、あらためて「美術界戦争責任に関する世論調査(①この問題の意義、②具体的な追及の方針、③創立総会決議への感想)を訴えている。これは5日付のものを保留し、さしかえることを意味している。」※19
 このように、永井の執筆した日本美術会の公式的な歴史とも言える『日本アンデパンダン展の25年』のなかでは、明確に第3号を2回発行したことを認め、7/10 号によって7/5 号をさしかえるとの見解が示されている。ただ、リストに挙げられた人名は触れられていない。

 翌1973年、戦犯リストの載った7/5 付『会報』が、戦後文化の足跡をたどる資料集『戦後資料:文化』に掲載された。おそらくこれが1946年以降、初めての公開であり、それ以降の典拠となる。この資料集には、文学、演劇、映画、音楽・舞踏の項目のあとに「美術」関係の資料が収められている。松本竣介の文章「全日本美術家に諮る」から始まり、日本美術会の結成の呼びかけと宣言・綱領・規約に続いて、同会の「美術界の戦争責任問題」の資料を収めている。「「戦争責任」に関する創立総会採択決議案」や、7/5 付『会報』(第3 号-1)の「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」では、14名の氏名が各自の戦争中の活動紹介とともに記されている。そして、7/10 付『会報』(第3 号-2)の「美術界の戦争責任」に関する創立総会採択決議案要旨と、8/10 付第4 号の世論調査趣意書も一緒に所収された。
 今日に至るまで、戦犯リストの存在の根拠となるのは、この南博編の『戦後資料:文化』である。総評系の国民文化会議が、1965 年から準備を始めたというこの分厚い資料集の「美術」を担当したのが、針生一郎だった。日本美術会が戦犯リストの作成と、二種類の第3号発行を認めたものの、リストの中身を公開しなかったのに対して、翌年、『戦後資料』によって一般の人々の目に晒されたことになる。おそらく針生は資料集を作成するにあたって、『会報』を直接目にしたであろうし、もしかしたら現物を持っていたかもしれない(遺品に残っていないだろうか?)。針生が、なぜ、7/5 付の『会報』を出版したのかを考えるには、国民文化会議や共産党を取り巻く政治文化状況を調べる必要があるだろう。
 戦犯リストの典拠として『戦後資料:文化』が決定的に重要だったのに対して、菊畑茂久馬の一連の戦争画論は、戦争画に対する視点を広めるのに大きな役目を果たした。菊畑は、『美術手帖』の「フジタよ あなたは」(1972 年)で問題意識を世に問い、石牟礼道子の発行する季刊雑誌『暗河』に寄せた論考「フジタよ眠れ」(1975年)において、日本美術会や公職追放G 項や名前の挙がった画家名にも触れている。その後出版された単行本『フジタよ眠れ』(1978 年)の論考は、『暗河』とほとんど変わらない。そして、『フジタよ眠れ』は1993 年に『絵描きと戦争』のなかに再録されたとき、あらたに『戦後資料:文化』を参照して、戦犯リストに挙がった人名と団体名を追加・再録している。これは2021 年の新版『フジタよ眠れ』でも同様である※20。菊畑の論考は、戦争画の言説史では影響も大きく重要であるが、自分自身で原資料を調べたものではなく、典拠の多くを船戸洪吉の『画壇』に拠っているため、検証が必要である。



※5 「 追放令と文化界、美術評論家 荒城季夫氏談」『読売新聞』1946年3月18日朝刊。

※6  J・F「美術時評」『自由美術』第1 巻1 号、自由美術社、1946年4月、pp.17-19.

※7  内田巌「「日本美術界」の結成と「美術界粛清委員会」」『文化人』1946 年5・6 月号、p.29.

※8  増山太助「b 文連(日本民主主義文化連盟)活動一カ年半」、自由懇話会『日本文化年鑑』社会評論社、※9  1948 年1 月、p.38。『文化年鑑 1949 年』は、日本民主主義文化連盟編で、資料社から1949 年2 月に発行(須山計一が「美術」の項目を担当)。

※10  木村重夫『日本近代美術史』造形芸術研究会、1957 年1 月、p.372.佐田勝・永井潔・井上長三郎・高柳博也・新海覚雄・箕田源二郎・金野新一「座談会:日本美術会10 年の歩み」『美術運動』52 号(実際は54 号)、復刻版第2 巻、p.337.(三人社、2020 年)

※11  船戸洪吉『画壇:美術記者の手記』美術出版社、1957 年8 月、p.61。この記述の根拠として、船戸は『朝日』1946/3/11 と『中部日本』3/16 を挙げているが、『朝日』についてはこれらの画家の名前は確認できない。『中部日本』は未見。

※12  毛利ユリ「左翼美術について その1」『批評運動』14 号、1957年8 月。『美術批評集成:一九五五- 一九六四』(藝華書院、2021 年)に再録、p.175。毛利ユリ(本名:榑松栄次)は砂川闘争の写真を撮影し、『批評運動』を中村宏・大久保そりやと編集。『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』の「中村宏オーラル・ヒストリー2012 年3 月30 日」を参照。

※13  針生一郎「戦後美術の再検討のために」『美術運動』53, 1957年4 月15 日:同「前衛はどこにいる 芸術運動の条件」『美術運動』59, 1960 年2 月10 日他。

※14  針生一郎「戦後美術と戦争責任」『文学』1959 年5 月号。前掲『美術批評集成』に再録、pp.114-116.p.372.

※15  無署名「赤い団体・日本美術会」『芸術新潮』9(1), 1958 年1月号:針生一郎「「雪どけ」の美術」『芸術の前衛』弘文堂、1961 年。

※16  箕田源二郎「進歩的美術運動の現状:日本美術会を中心として」『前衛』166 臨増、1960 年4 月号、p.113.

※17  菊畑茂久馬「フジタよ あなたは:太平洋戦争記録画からの考察」『美術手帖』24(353), 1972 年3 月号。

※18  永井潔「日本美術会のあゆみ 1」日本美術会『日本アンデパンダン展の25 年:歴史と作品』1972 年、p.17.

※19  同前、p.13.

※20  ` 菊畑茂久馬「フジタよ眠れ:太平洋戦争画採点」『暗河Kurago』6 号(冬)、葦書房、1975 年1 月。


北原 恵 / きたはらめぐみ

美術史・表象文化論・ジェンダー論

著作に『アート・アクティヴィズム』、『攪乱分子@ 境界』、『アジアの女性身体はいかに描かれたか』他。