北野 輝 きたのてる (美学・美術批評)
北原恵氏の論文の意義
『美術運動』前号(No.150 2023.3)に北原恵氏の論文「日本美術会『戦犯リスト』をめぐる、いくつかの疑問』」が掲載されている(同上
p.14~21)。私が表記のテーマにより草創期の日本美術会(以下、日美)、が直面した美術家の戦争責任の追求という重要問題に取り組むことを決めたのは、私自身も戦争責任問題に関心を持っていたせいもあるが、実は同論文に誘われた、いや鼓舞されたからである。
北原論文はこれまで日本美術会自身が1946 年以降は扱ってこなかった美術家の戦争責任問題を扱い、関係資料を博捜し「暫定的」としながら、次のような結論に達している。日美は一旦作成した「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」をその後撤回(または留保)しており、「美術史の記述として「リストを公表したとは言えないのではないか。もしリストについて言及したり、7/5 付会報を引用するのであれば、本問題の再審議(7/10 付会報)についても触れるべきである」(同上 p.20)。この結論は、『日本アンデパンダン展の25 年』(日本美術会、1972.5.15)に示された見解とほぼ同じものである。しかし重要なことは、北原氏が、その結論を「美術史の記述」として日本美術史のページ上に刻印して客観化したことであろう。
一方、北原氏のこの研究は、必要だがまだ未見の資料の調査などを残しており、性急な論評は慎みたいが、そこには当然のことして私との立脚点の違いや事実判断の違いなども含まれている。しかしそれは、日美がこれまで怠ってきた戦争責任問題への取り組みの起点ともなる貴重な労作であることに変わりない。
本稿の起点/ 基点
北原論文を起点とするにしても、では自分自身の起点/ 基点をどこに置くか。いろいろ迷ったすえ、私は過去の拙稿「藤田嗣治『戦争画(死闘図)』ノート1」(『美術運動』No.143.2016.3. p.30~32)にそれを求める以外にないと決めた。すなわち同稿の冒頭で書いた藤田嗣治展への批判的立場を起点/ 基点として堅持し、その拡張・発展を目指すことにした。
2015 年、東京国立近代美術館は、当館が所蔵する藤田嗣治の戦争画全14 点を含め、全藤田作品25 点を展示した(東京国立近代美術館「MOM コレクション特集:全所蔵作品 展示」)。同館はその機会に、1970 年にアメリカから返還(無期限貸与)された戦争画153 点中、藤田の全作品を展示したのである。これまで小出しに展示されてきた藤田戦争画の14 点の一挙公開は画期的なこととして話題を呼んだ。
同展に対して私は同上の拙稿で批判的に次のように書いた。
今回の東京国立近代美術館所蔵の藤田嗣治戦争画の全面的公開は、これまでなされたかったその全面的点検に道を開いた点で、確かに「画期的」なことと言えよう。しかし反面においては、「戦争画」を描いた藤田らの大半が未決のまますり抜けた「戦争責任」問題を今日までほとんどそのまま放置してきた日本の美術界の「戦後責任」回避の姿を、象徴的に示してもいるだろう。しかし、いま各地・各分野で表現の自由への抑圧が起こり、戦争国家へと大きく舵が切られ、戦争参加への危険がリアリティーをもって目の前に迫っている。「戦争画」と「戦争責任」問題はたんなる過去のことではなくなっているのである。(同上拙稿 p.30)
上記「戦後責任」とは簡略化して言えば、前世代が果たせなかった戦争責任を戦後世代が負うことであるが、その「回避」の一例として私は次のような同展の解説を挙げておいた。
[ 藤田は敗戦の翌年] 一説によると、戦争協力責任を負うよう美術界の説得を受ける。(同上藤田展図録、p.35)同じ頃、仲間から戦争協力の責任を代表して負って欲しい、と説得されたといいます。(同展会場での表示)
この「一説によると…」、「…といいます」との表現は、同展が、その真偽不明の「一説」なるものや風聞を検証することなく放置してきたことを物語っていまいか、さらに言えば、同館は、藤田評価にとってやり過ごすことのできない戦争責任問題に深入りすることを避けようとしているのではなかろうか、と思われてならなかったのである。
内田巌の藤田嗣治訪問記
(船戸洪吉『画壇―美術記者の手記―』)をめぐって
ここで「一説」といえば、まず船戸洪吉『画壇?美術記者の手記』(美術出版社1957.8)が伝える内田巖の藤田嗣治家訪問の手記が思い浮かぶだろう。その手記は、1957 年に同書が出版されて以来、さまざまな人たちにより引照されることになり、その資料的価値は大きい。だがそれは、「リスト作成や典拠には間違いが多い」と北原恵氏も指摘していることも含めて(前掲北原論文 p18)、かなり問題含みの内容のものである。ここではその叙述の仕方や内容そのものを点検してみよう。
著者の船戸洪吉はまだ経験の浅い毎日新聞の記者で、1946年6月当時、戦争犯罪候補として噂の高かった藤田嗣治の番記者としてしばしば藤田家を訪れていた。該当の手記は、たまたま藤田家を訪れた彼が、内田巌の藤田訪問にまだ憤慨の収まらないない君代夫人から玄関先で聞き取った話に基づいている。該当する部分を文末に資料として載せているので、ここでは手短に問題点だけを摘出することにする。
1)「ガンさん[ 内田巌] がきてネ」以下数行は、君代が語ったことを船戸がその場に居合わせ見ていたかのような?あたかも「講談師、見てきたような…」?語り口でこまごまと記述している。藤田家では内田巌は「ガンさん」と呼ばれており、彼らが一定の親密な関係にあったことを窺わせる。
2) だが、「実は…」以下の部分で、〈話は、〉以下は船戸の伝聞であり、一転して改まった口調に変わり、内田が文書(君代が言う「書き付みたいなもの」)を片手に読みあげたように取れる記述になっている。おそらく君代の話はこのようではあり得ず、ここは君代の話をもとに事情に通じた船戸が修正し作文したものであろう。
この手記中もっとも重要な箇所なので引用しておく。
「実は……」と切り出した。話は、日本美術会の決議で藤田嗣治、つまり貴方を戦犯画家に指名、今後美術界での活躍は自粛されたい、というのであった。今日はそれを日本美術会の書記長として通知に来た。(船戸『画壇』p.69)
3)〈 まったくの悲憤慷慨であったが〉以下は、帰路についた内田が哀れな敗残兵のような姿で船戸の想像のなかに描かれている。内田と藤田の間で怒鳴り合いになったとの風説もあるが、二人の間に本当に何があったのか。内田はなぜ敗残兵のようなイメージで船戸によって描かれたのか。
ここでいくつかの疑問が浮かぶが、それら一つひとつの詮索は割愛しよう。問題は、内田が何のために藤田を訪れたかである。日本美術会の初代書記長であった彼が、会の決議により藤田に「自粛」するよう書記長の名において「通知」に行ったというのが、船戸手記の最重要ポイントに他ならない。
まず、君代が訝るように、なぜ藤田が酒肴をもって内田を歓待したかには、理由があった。笹木繁男氏は、戦時下から藤田と内田は手紙のやり取りをしていたが、戦後、経済的苦境にあった藤田を、内田が彼の作品を売ってやって支援していたことを、内田家に遺存されていた藤田の手紙で明らかにしている(笹木『藤田嗣治?その実像と時代?』下巻、現代美術資料センター 2019.8.9. p.201~203
)。
そのような両者の関係の中で、1946 年6 月16 日に開催された日美の委員会(美術界粛清委員会)でいわゆる「戦犯リスト」(正確には、「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」)が決定され、その翌6 月17 日に内田は藤田を訪ねている(笹木氏によるこの日取りの推定には検討の余地が残る)。しかしこの委員会決定は、6 月20
日に迫った民主主義文化連盟への「リスト」提出のためであり、「リストに搭載された該当の各作家に対する通告は初めから目的としていたわけではない」(笹木、上掲書
p.199)。このことを踏まえると、内田の訪問は、かねてから懇意にしていた先輩画家の藤田に対して、善意から内々に前日の委員会決定を伝え、時節柄なるべく慎重な行動をとるよう「助言」にいったとの推測もできよう。「書記長」として「通知」に行ったのではなく、「私人(友人)」として「助言」に行ったのであると。だが推測を裏付けるに足る証拠は見当たらない。
内田巌の真意と行動ははかり難いが、彼の藤田訪問の噂を聞きつけて驚いた永井潔が、箕田源二郎の所有する議事録を調べたがそのような記事は見当たらなかった。会の決議を伝える場合には必ず複数の代表者がそれに当たるのが慣わしで、その記録はいずれも残っているのに、それがない。内田の訪問は勇足の個人的訪問としか考えられない、と述べている(永井潔他「座談会
戦争と美術」『民主文学』2000.3.p.108/109。永井潔『あの頃のこと今のこと』日本美術会 2008.11.p.99)。だが、日本美術会としてはそのように確認しても、内田の訪問が私人としてか委員長としてかは一般的には知り難く、船戸の訪問記がそのまま今日まで通用することになったのは避けられなかったろう。
なお、箕田源二郎が『前衛』に寄せた文中(箕田「進歩的美術運動の現状」1960.8. p.113)で、内田巌が藤田嗣治を訪問した際に藤田に戦犯だから自粛せよとの勧告文を突きつけたという説にふれて、「戦犯のリストをつくってよみあげたということがいわれたりかかれたりしているが、私が現在までしらべたところででは事実はないし、少なくとも会の記録にはとどめられていない」と書いている。それに対して、北原恵氏は箕田が「戦犯リスト」をつくったことを否定していると解しておられるが(北原論文
p.18/19
)、それは誤りであろう。たしかに箕田の記述は曖昧でそのようにも読み取れる可能性がある。しかし、ここは上記の永井の話に照応しており、「戦犯のリストをつくってよみあげた」こと、より限定的には「戦犯リスト」をつくったことを否定しているのではなく、内田の行為が会を代表して行われたという風説(船戸説)を否定しているのである。なお、それに続く北原氏の見解については後の検討対象としたい。
ここでこれまでの瑣末で無用とも思える詮索をもとに、私なりのまとめの見解を示そう。
この藤田家訪問記は内田巌が1953
年に死去した後に書かれたものであり、そこに嘘や歪曲が混じっていようと本人からの抗議や批判を受ける恐れのないものであった。船戸洪吉は、自分の思いのままに当時の読者(主に美術家たち)を楽しませる「講談師」もどきのレトリックを駆使する一方、結局のところ、内田が日本美術会の決定により「書記長」として「自粛」の「通告」をしたことを読者に強く印象付けることなっている。また帰路に着いた内田の船戸による惨めな姿の?想像上の?描写は、直接的には藤田夫妻への気遣いによる演出だろうが、当時の社会的風潮を背景にして藤田擁護に傾いていた美術家たちのウケを狙った新聞記者・船戸洪吉のジャーナリスティックな作為によるものと解される。いったいこの訪問記全体が、当時の風潮下でウケを狙った作為に貫かれていることを指摘したい。
1957 年、当時の日本社会を覆う「逆コース」の風潮が強まる中で、1946 年代から飛び交っていた藤田嗣治をめぐるさまざまな風評/
風説が、『画壇』における内田の藤田訪問記に力を得て、「内田の藤田追放」説(内田による厳しい戦犯追及を受けて藤田は日本を出た)へと収束していったのであろう。ここにおいて戦争責任を追求した内田ないし内田側(日本美術会、さらに左翼)は加害者となり、藤田ないし藤田側(戦争責任を負うものとされた美術家たち)は被害者となり、同情や擁護の対象に転化している。本稿冒頭における2016
年の東京国立近代美術館の藤田展での解説に戻っていえば、その「一説」なるものは「内田の藤田追放」説ないし「藤田スケープ・ゴート」説に照応していたのである。
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