藤田嗣治「戦争画(死闘図)」ノート Ⅱ

北野 輝(きたの てる)

 

(4)ところで、軍部(国家)による公的支えと戦争(「戦争記録」)という課題が与えられたとしても、日米開戦(1941年12月)以前の藤田の絵には、後の「戦闘図」とくらべると、それに取り組む作者の熱意と描写の「迫真性」が希薄のように感じられる。それは戦闘とその描写への単純な愛好に基づき気楽に描かれた「好戦画」の「表層性」を出てはいない。彼の「戦争画」ががぜん熱気と「迫真性」を帯びるのは、日米開戦以後、とりわけ戦況の悪化してからの「死闘図」においてである。それは戦争そのものには無関心で明るい(その意味で中立的な)「無条件的な好戦画」から暗褐色を基調とする「無条件的な凄惨画」への転換であるが、それだけではない。初期のたんなる戦績の「記録画」(とはいえ《哈爾哈河畔之戦闘》はまったくのフィクションに等しい)から西欧の大画面の戦争画を参照した「歴史画」への転換であり、エコール・ド・パリ時代(1920年代)の日本化されたモダニズムとは逆の「リアリズム」にも通じうる西欧古典への遡行でもある。

 褐色を基調とし前景に日本兵を配した《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》*(1942年)は、横長の画面にパノラマ風の眺望が広がっており、前期から後期への転換を画している作例と言えよう(同年の《十二月八日の真珠湾》は凡作)。だがこの転換は、太平洋戦争への突入と大東亜共栄圏建設という「大義」の明確化に呼応してなされたと言うより、画家・藤田の表現者としての感性と欲求そのものの高まりによるものと見られる。「無血占領」などは画家としてかえって扱いにくく、「その点、僕なんぞは与へられたのが激戦中の激戦、ブキ・テマなんかだから願ったり叶ったりさ」と彼は明かしている。日本兵に多数の死者の出る戦闘の激しさを聞き知っていた彼は、激戦によらない戦績を平明に描くことには満足できず、画家にとって描くことの難しくいっそう高度な——他より優れた——技術と創意の発揮できる激闘を描くことに惹かれていった。そしてこの表現者としての欲求は、凄惨な場面を描くことにまで高まっていく。「僕が聞いた話でも凄惨なのがあってね、僕は描きたくて堪らない場面なんだが描けないんだよ」と彼はあからさまに語っており、その「描きたくて堪らない場面」を描くチャンスは、戦況が悪化する中で起った大量の犠牲者を出しての撤退(ガダルカナル島)や守備隊の全滅(アッツ島)という悲劇によってもたらされたことになる。戦況悪化にともなう各戦線での敗北や撤退、中でも「玉砕」の報は藤田の制作にとってむしろ追い風となったことだろう。

画家と戦争

 

(5)《血戦ガダルカナル》*に続く《アッツ島玉砕》*(いずれも1943年)は、軍部の要請によらず藤田の自発的な意志によって描かれた作品である。太平洋戦争における初の玉砕を描いたこの「死闘図」においては、戦時情勢と画家の制作欲求とがぴったりと一致しえたものと思われる。藤田の眼はひたすら凄惨な死闘に向けられており(その点で、1940年の《猫(争闘)》がもっぱら獰猛な獣性の表現となっていることに通底し、それと対をなしている)、ここにおいて前期の「無条件的な好戦画」は、「無条件的な凄惨画」に成ったと言ってよかろう。「無条件的」と言うのは(繰返しになるが)、画家の関心と眼がもっぱら死闘場面に向けられており、戦争そのものには無関心的な「中立性」を保っているかに見られるからである。

 だがこの作品の詳しい分析に立ち入る余裕はないので、ここでは急いで私の解釈と評価を粗書きすることにしよう。問題は、「絵空事」に過ぎないこの絵とその「迫真性」にかかわっており、戦時下における「死闘図」の「自律」とその「限界」にかかわっている。

 アッツ島玉砕からの数少ない生き残りの老人が画集で《アッツ島玉砕》を見せられて、「これは絵でしがねえ。現実はこんなでは、ねえ」と言下に言ったという(朝日新聞、2015.2.15)。事実は藤田の描いた白刃を閃かせた密集戦とは異なりいっそう悲惨なものだったが、もともと藤田は自身の目撃することのできない「玉砕」の事実を描こうとはしてはいなかったのだ。藤田はこの絵を手がけていたときの心境を次のように語っている。「これは一つ、私の想像力と兼ねてからかいた腕だめしと言ふ処をやって見ようと、今年は一番難しいチャンバラを描いてみました」 彼はヨーロッパの伝統的な歴史画が、事実にとらわれることなく仮構された物語、つまり絵空事を描いていることをわきまえており、それに倣って悲惨な「玉砕」をも仮構された「チャンバラ」として描き出してみようと、あからさまに言っているのである。彼自身のこの言葉に従えば、《アッツ島玉砕》は仮構された「チャンバラ」すなわち「チャンバラごっこ」の絵だ、ということになろう。

 この「チャンバラごっこ」は、かつて藤田が監督制作した映画《現代日本 子供篇》の中心的題材であったし、その結末は「刺し違え」と「切腹」のシーンであったことが思い出される。「刺し違え」は、《血戦ガダルカナル》と《アッツ島玉砕》の両作に、互いに相手の顎に手をかけて死闘する二人の兵士として挿入されており、ヨーロッパ古典絵画を参照したものとの指摘もなされている。「切腹」は、集団的な殉死(自死)を描いた《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年)へと発展するテーマであるだけでなく、日本兵の「自爆死」の表象に等しい「死闘図」のすべてに底流するテーマだと言えるだろう。こう見てくると、日本兵の死闘をチャンバラに仮託してとらえた《アッツ島玉砕》とこれに類する《血戦ガダルカナル》、さらには、今回初見の《薫空挺隊敵陣に飛行着陸奮戦す》*(1945年)は、刀による果し合い(殺し合い)という前近代的な死闘に血脈を通じていることがわかる。「殉死画」と言える《サイパン島》は前近代的な殉死の作法の現代的な変奏とみなすこともできる。さらに言えば、藤田の「死闘図」を広く「チャンバラごっこ」の絵の系譜として見れば、その血筋はおそらく「チャンバラごっこ」に興じたであろう藤田の幼児体験にまでさかのぼってたどることができるかも知れない。

 ヨーロッパの古典絵画への遡上と日本の前近代と幼児体験に通じる血脈。それが絵空事に過ぎない死闘図に「リアリティ」と「迫真性」を与える「血」を何ほどか注入することになったではあろう。だが私は、《アッツ島玉砕》の「迫真性」は、その血脈の先端に生じた「好戦」から「凄惨」へと転化・高揚した藤田の嗜好と、画面上の登場人物たちを自在に操り、その劇的な所作と表情の描出に秘術をこらし、「一番難しいチャンバラ」の描出に没頭した彼の筆力との相乗作用によってもたらされたものと解する。凄惨への嗜好と自在な筆力による描くこと自体への没入。この互いに他を増幅し合う相乗作用こそ、現場をみることもなく想像によって描かれた絵空事のこの「死闘図」に「迫真的リアリティ」をもたらすエネルギー源だったと解するのである。

 しかしこの「迫真的リアリティ」は、実のところ戦争の真実に迫るものとは異質である。それは、凄惨への嗜好と自在な筆力による描くこと自体への没入により、凄惨への距離が消し去られ、凄惨と画家との同化・一体化が生じた「成果」であろう。凄惨と画家との同化・一体化は、画家自身の意図はどうあれ、凄惨への主客一体化した同調であることを免れない。この点が、藤田の凄惨画とゴヤが《戦争の惨禍》シリーズのなかで描き出した凄惨場面の表現(例えば、《立派なお手柄! 死人を相手に!》その他)との本質的な違いであろう。ゴヤは、人間の残虐行為に衝撃を受けながらそれを客観視し、そのような行為に奔る人間とは何か、そのように人間をしむける戦争とは何かという根本的な問いへとかき立てられている。ひたすら仮構された凄惨場面の描写に没頭する藤田には、その客観視も根本的な問いかけも見られない。この点で、《アッツ島玉砕》は戦争そのものには関与しておらず、その意味で戦争にたいして「中立的」と言いうるし、その限りで侵略戦争遂行の国策や「戦意高揚」というイデオロギーを超えていると言えるだろう。藤田の死闘図を「無条件的な凄惨画」と呼ぶのはその限りにおいてである。しかし、《アッツ島玉砕》がつまるところ「凄惨への同調」の表象であるとすれば、それは戦時体勢下にありながらそれを超ええた芸術の「自律性」の確証と見えるが、行き着くところ凄惨な暴力と死への同調という陥穽にはまり込んでいることに他なるまい。

 

(6)藤田嗣治の凄惨への嗜好と自在な筆力への没入は、藤田「死闘図」と双璧をなす《サイパン島同胞臣節を全うす》*(1945年)の画面をも支配している。この作品は、1944年7月のサイパン島守備隊の壊滅直後に起った民間人らの集団的な自決の様子を描いたものである。ここでは「玉砕」の様子が海外情報により詳しく新聞紙上で伝えられていたので、藤田もその記事を手がかりに画面構成をしたと見られている。以下ここで《アッツ島玉砕》との異同に触れつつ、急いで仮の結論に至りたい。

 《アッツ島》で藤田の眼はひたすら死闘場面に向けられ、その筆は凄惨な死闘へと同化・同調していたとすれば、《サイパン島》で彼の眼はひたすら自決に向かう民間人らに向けられ、その筆は凄惨な自決へと同化・同調している。後者においては、それぞれ葛藤を抱きながらもこもごも粛然と自決に向かう島民たちの姿が描かれており、ここでは表層における「殉死の美化」による「戦意高揚」という戦争イデオロギーへの同調と、深層における自死そのものへの同調とが重なり合っている。いずれにしても、二つの死闘図、《アッツ島》と《サイパン島》は、凄惨な決死の攻撃への同調(前者)と能動的な自決への同調(後者)において、一面ではたんなる戦意高揚のプロパガンダ芸術の域を超えて、芸術の「自律」を達成しているかに見えながら、死に至る暴力と死そのものへの同化・同調によって、実は深いところで戦争との共犯関係に陥ってしまっていることは否定できまい。ここに藤田とその「戦争画」の抜き差しならない矛盾と不幸がある、と私には思われる。

 描くことへの強い欲求と他をかえり見ぬ没入は画家の「業」と見なされたり、その常軌を逸した強度においては「狂気」と呼ばれたりする。藤田の「戦争画」、なかでも「死闘図」は、ほかならぬ画家・藤田の「業」や「狂気」の所産だとみなすこともできるだろう。藤田嗣治に強い思い入れをする菊畑茂久馬氏は、彼の凄惨場面の描出への没入を「絵画の名における屍姦」という画家の「業」とみなし、「フジタの『狂気』が戦争を突きぬけて『絵画的自立』へ至る」(菊畑『天皇の美術——近代思想と戦争画』フィルムアート社、1978年)と藤田芸術を擁護している。思いがけずこの藤田擁護は、藤田が凄惨場面の描出への没入により戦時体制と戦争イデオロギーを一面では超ええたとの私の判断に通じている。しかし私は、芸術とその「自律」を「業」や「狂気」の所産として超越させることには同意できない。藤田が「屍姦」とも「狂気」とも見える「没入」によって至りついた「絵画的自立」が何者であるかを、さらに問い続けたいと思う。「自律絵画」の芸術的価値は、人間的・社会的価値を豊かにし拡大してくれ、しばしば揺さぶり否定さえするものではあっても、けっしてそれを超越するものではなく、その価値形成に多様な形で参画しているに他ならないと考えられるからである。

 だが以上の私の藤田嗣治「死闘図」の粗略な解釈と評価は、その芸術的価値と位置づけを問う部分的な試みの一階梯にとどまり、論究すべき多くの問題を残している。