わたしと日本美術会-あるいは政治と芸術のはざまで-

池田龍雄 いけだたつお (画家)

 1948年の春、つまり終戦後2年半を過ぎたころ、わたしは多摩造形芸術専門学校(現・多摩美大)に入ったが、その頃はまだ日本美術会の存在を知らなかった。知ったのは、同じ年の12月、同会主催のアンデパンダン展が開かれたことによる。

 

が、わたしは既にその頃、岡本太郎や花田清輝らが始めたアヴァンギャルド芸術運動に参加し、そのことに熱くなっていたので、日本美術会などには殆んど関心がなかった。何となく古めかしいという一種の偏見によるのかもしれない。とにかくアヴァンギャルド、すなわち戦後美術の新しい道を切り拓くのだ!という意気込みに燃えていたのである。だから、アンデパンダン展と言えば、翌年の49年2月に鳴り物入りで始まった読売新聞社主催のアンデパンダンに注目したのだった。

 

 同展へのわたしの出品は、翌49年第2回展からしばらく毎年続いたが、それも束の間、50年6月、突然、朝鮮半島で戦争の火の手が上がったせいで、それまで敢えて内側に向けていたわたしの眼は、否応なく外側に向けられた。あの大戦争が終わってまだ5年も経っていないのに、またしても戦争。ことによったら、それがアメリカとソ連、そして出来たばかりの中華人民共和国を巻き込んで、第3次の世界大戦になるかもしれない、という危機感があったのである。

 

 おまけに当時は、アメリカでマッカーシー旋風と呼ばれる猛烈な反共の嵐が吹き荒れ、日本の共産党が弾圧され、赤旗は発行停止、幹部は地下に潜った。それにともない、多くの知識人、芸術家で入党する者が続出し、わたしの周辺の画家たち何人かも党に入った。なかでも前衛美術会に所属していた数人、山下菊二や尾藤豊、桂川寛らは党の指示で、当時、建設中の小河内ダムに行き、労働者と寝食を共にしながら絵を描くという活動を行なった。その数か月後、新宿にあった新日本文学会の会館で、その成果報告が行われたので、わたしは、それに出席した。そこでは様々なことが論議されたが、なによりもここに記すべきことは、この朝鮮戦争が引き金になるかもしれない再びの大戦の危機に対処して、若い美術家たちによる組織を作ろう、という問題が提起されたことである。そして、それから半年後の53年3月、青年美術家連合が全国的組織(会員120人程)で発足した。そして、早速その青美連が主催する無審査アンデパンダン形式の「ニッポン展」が開かれたのである。

 

 ところで「ニッポン展」は、その成立のいきさつ上、反戦平和・反体制的であり、それは日本美術会とも共通する思想である。そういう理由だったのか、わたしも含めて青美連の一部が日本美術会にも所属したが、長続きはせず、すぐに脱退したことがある。そのことについての詳しい説明はここではできないが、とにかく日本美術会は、わたしにとって一時期身近な親しい間柄であったことは確かである。

 

 ちなみにわたし自身が日本美術会のアンデパンダン展に出品した回数と点数は下記の通り

 

第 6 回展 「人々」「腕」(油彩)

第 7 回展 「僕らを傷つけたもの」油彩)

第 8 回展 「サイレン」「谷間」(ペン画)

第 9 回展 「巨人」「氏神」(シリーズ化物の系譜) (ペン画)

第10回展 「ながいもの」(   〃   )(ペン画)

第13回展 「アトラス」「アメリカの長距離ミサイル」(ペン画)

第15回展 「Q氏の眼玉」(ペン画)     以上7回 

 

ともあれ、その間にも時代はどんどん変わった。青美連の活動はあまり永続きせず、58年頃にはほぼ停滞していたが、政治の方では60年安保騒動。しかし、それも結局は国会の強行採決で決着し、続いて高度成長。やがてバブル。そして当然なその破裂。相前後してベルリンの壁が崩れ、ソ連の社会主義も崩壊し、元のロシアに戻ってしまった。

 

 バブルと言えば、美術の方ではすでに50年末から、いわゆる「アンフォルメル旋風」なるものが吹きはじめ、60年代になると、アメリカの方から太平洋を渡ってやってくる、ポップアート、オップアート、とか、フォトレアリズムとかアースワークスとか、次々美術の枠を超えたようなものが出現して美術ジャーナリズムを騒がせた。その間にも、わが国では「具体」や「もの派」、「ネオ・ダダ」、「ハイレッドセンター」などの活動があったのである。「反芸術」とも言われたそれらの動きが一応収まった後に見えてきたのが、インスタレーションやコンセプチャルアートであった。

 

 21世紀に入ると、冒頭にニューヨークの貿易センタービルに旅客機2機が突っ込む、という事件が起き、それをきっかけに新世紀はテロの世紀とも言うべき世紀になった。絵画という名の幻想とか、芸術の終焉という声が聞かれたのもその頃だ。数万年前から続いている「芸術」が、そう簡単に終わるわけはない。人が人として生きている限り「ゲイジュツ」は無くてはならないものだ。これまで起きた芸術の喧騒とは無縁に、悠然と生き続ける芸術もあるだろう。肯定するにしろしないにしろ、そのような人がいることは確かだ。人は何故、何のために生きているのか、という問いに明確な答えがないまま人は生きているのだろうが、同じように人はなぜ芸術に関わるのか、絵を描くのか、明確な答えが得られないまま、私は絵を描いている。そして、それでよいのだ、と思っている。

 

 何よりも、美術=芸術にとって大事なことは、外部から加えられる圧力に屈しないことである。同時に、守るべきは内発する意思、そして自由である。