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DMZ(非武装地帯)・2016・9・23――韓国・坡州(パジュ)を訪ねる――

オザキ・ユタカ(日本美術会会員)

この地を訪ねてみたかったのは、韓国通の女優黒田福美さんの本でDMZを知り、若い時分に歌った「臨津江(イムジンガン)」(イムジンガン 水清く ・・・ )を直接見たかったことや、東西の冷戦や朝鮮戦争で、祖国の分断を余儀なくされたこの地の今を、ぜひ体験してみたかったからです。

  「日韓交流展」(公州市ゴマ・アートセンター9月26日~)に合わせプライベートな韓国旅行スケジュールを立て、9月22日午後成田を立ち夕方ソウルに着いた。以前にも利用したゲストハウスに今回もお世話になる。オーナーは日本語が解るので、気軽にこちらの旅行目的を話せる。DMZに行くには、バスツアーしかないので、早々にソウル発着のバスツアー予約の電話を入れて頂くが、予約し3日後の出発、日曜・月曜は休みとのこと。「今回の旅では、日並びが悪く行けない、次の機会にしよう」と諦めかけたのですが、「それなら、難しい坡州行、前倒しにして行けるところまで行ってみよう」という気持ちになりました。翌日、早々に坡州へ向かって出発。空がとてもよく晴れ渡って、日本の出発前の秋雨の続く肌寒い日がウソの様。近くの駅は、景福宮(キョンボックン)。この地下鉄3号線を北西の方に向う。いつの間にか地上を走り13番目の大谷(テゴク)駅に着く。そこで京義線(キョンイ)線に乗り換える。風景は一段と地方の田舎に来たような、人家もまばらな田園風景が続き、黄金色が広がる。京義線は行けるところまで行こうと決めているので、坡州駅も過ぎ?山(ムンサン)駅で降りた。以前、黒田福美さんの旅では行けたこの先の臨津江駅、そしてDMZ内の都羅山(トラサン)駅には、今は行けないようだ。路線図の終着駅が?山駅になっているからだ。駅前を、バスが出ていないか探してみる。時間がゆっくり流れて行くような静かな街だ。中型の古いバスが路上に止まっている。私の韓国語では行き先も時間もはっきりしない。DMZ近くの「臨津閣(イムジンカク)」までは、どうしても行ってみたいという気持ちに駆られ、タクシーをつかまえる。行く先が分かっていれば、お金はかかるがタクシーが便利だ。タクシーに乗り、市内の大通りに入って先ず目にしたのが、戦車隊の列※1だった。重装備をした兵士がいる。こうした写真を撮っていいものかどうかためらったが、「タクシーの中じゃないか、こんなチャンスはない」と思い、恐る恐るカメラを出し素早くシャッターを切った。坡州は、高麗(コリョ)の都の開城(ケソン)と李氏朝鮮の都の漢城(ハンソン)=現在のソウル=の間にあって、北朝鮮に対峙する軍事上の最前線防衛都市なのだ。市街を抜け20分程して広々とした「臨津閣」に着いた。ここまではDMZ際だが、誰もが入場出来る。平日にかかわらず、北に家族のある方々(一千万人を超えると言われる離散家族者)や平和と祖国の統一を願う多くの方々が、全国各地からバスツアーなどで訪れていた。望拝壇や朝鮮戦争の遺物、平和の鐘※2が安置されている。また、観覧車も備えた遊園地や食堂、土産店、レストラン、カフェ、ショップなどもあり、一大観光地ともなっている。うろうろしていると、ある店先でDMZバスツアーの表示を発見しビックリしました。急いで窓口で聞いてみると、ここ発のツアーバスが12:00発であるという。早速パスポートを提示し、切符※3を買いました。『都羅展望台&第3地下トンネルを回るコース』で、今回の旅で私が希望していたものでした。慌ただしく軽い昼食を済ませ発着所へ。12時過ぎ、30人ほどの韓国の方々に混じって出発。バスは、5分もかからない内に検問所に着く。兵士がバスに入ってきて、名簿を見ながら一人ひとり身分証を確認する。OKが出てバーが開きDMZに入った。少し行くと、もうそこは、分断の象徴として歌われた臨津江、小高い山あいの開けた田園の中を、静かにとうとうと流れている。初めに着いた所は、都羅山駅だ。DMZ内韓国側の最終駅、真新しいガラス張りのモダンな建物の前で、着飾った正装の兵士が、観光客を出迎えてくれた。DMZ内写真撮影ができるのが分かり、やっと気分をリラックスすることができた。バスは山肌を上り「第3地下トンネル」へ。どこから来たのか、10台程のバスが並ぶ。ここには、DMZ関連の武器遺物※4や資料を収めた展示館、映像施設、記念オブジェ※5がある。DMZの過去・現在を大きなスクリーンで見せてくれる※6。印象深かったのは、半島を分断している軍事境界線(休戦ライン)が、長さ248Kmあり、その境界線から2Kmずつ区切った、およそ6400万坪という広大な土地が、自然と共に厳重に守られてきたので、タンチョウなどの野生生物の宝庫になっているという。皮肉なことだが、そうした自然の楽園のような多様性のある自由な世界を、この国の未来の希望としてうたっていることでした。第3トンネルは、地下30m程の所にあり、歩いても行けそうだが、トロッコ列車のようなシャトルトレイン※7で中に入った。そして暗くてじめじめした足場の悪い岩盤の道を150m程歩き、北朝鮮が、南侵を目的に密かに造ったトンネル前に着いた。覗き口からは、しっかりと封印されたトンネルが無表情に見える。バスはそれから、『都羅展望台』に着く。迷彩色の建物※8には、「分断の終わり、統一の始まり」と日本語でも書かれている。晴れ渡った日でしたが、遠くはかすんでいる。ここからの眺め※9は、広大な緑の大地の向こうに、北朝鮮の道や鉄塔、かすかに街が点在して見えるものでした。望遠鏡に何度も硬貨を入れて覗き込みました。穏やかな風土の中に、北のスピーカー音が低く聞こえ、宣伝村や、うっすらと開城市やその工業団地を眺めることができた。南北の共同事業の開城工業団地は、現在再開されていない。そしてバスは、「統一村」の物産店を回る。DMZツアーでしか入れないこの村は、※10、高麗人参、カボチャ、山芋、リンゴなどが特産物のようだ。帰り道、統一大橋を通るバスの中から、悠々として大らかな、臨津江※11を写真に収めることが出来た。再び検問所で身分証提示をうけ、およそ3時間のバスツアーでした。 

 

  臨津閣に戻ってから、2005年の平和祭典にあわせ併設された、「臨津閣平和ヌリ

公園」を見に行きました。公園のなだらかな斜面には、無数の色鮮やかな風車が彼岸花のように立ち並び、その向こうには、黒い人間の形をした大きなオブジェ※12が、地面の中からゆっくり立ち上がって来て、北を向きそびえるように立っている。この異様な空間は、人々に何を語りかけているのだろうか。先の戦争の鎮魂の思いや、明日への願い、それを見守る人びとなのだろうか。

 

 臨津閣には朝鮮戦争で爆撃を受けた汽車(今では、統一のシンボルになっている)もあり、そのそばの鉄条フェンス※13には、おびただしい程の、明るい色のリボンが、垂れ下がっている。とても深い悲しみと祈りがあるようだ。レストランやカフェの入った建物の上が展望台になっていて、良く実った水田の黄金色の上に、臨津江の水面が遠く光って見える※14。ここでは、テレビ局のイベントや映画の撮影※15も行われていました。陽が傾いてきたので、タクシーでムンサン駅に向かいました。ムンサン駅で、町をもう少し見て帰ろうと歩いてみると、ムンサン(坡州市)の別の顔が見えました。兵士相手の軍服や帽子などの衣料や雑貨品を扱うお店が軒を並べ、あちこちの食堂にも兵士の姿が見えます。セブンイレブンに入ってみたら客の半数以上が若い兵士でした。入隊前なのか、日程の非番なのか。本当に坡州は、兵士が日夜活動している最前線の軍事防衛都市であることが分かる。DMZを前に、緊張も感じるが、分断の終わりと統一を願った都市でもありました。