80年代ニューヨークのアート回想ノート ―滑らかな空間に抗って―

とし田みつ夫 トシダミツオ アーティスト

「私は同調をひたすら扇動する奴らが大嫌いだ」―ウィリアム・バロウズ―

私は1980年にニューヨークのアートスクールに入学し、そのまま居ついて、2005年に帰国するまでニューヨークで暮らしました。入学したその年に、元ハリウッド俳優のロナルド・レーガンが第40代合衆国大統領に選ばれ、その後12年間に及ぶレーガン・ブッシュ時代の幕開けでした。大統領選の翌月にはジョン・レノンが暗殺され、それは68年以来のカウンターカルチャーの終焉を思わせる象徴的な出来事でした。以降アメリカはリベラリズムが急速に衰退し、私が学生時代を過ごした80年代は保守主義が台頭した時代でした。レガノミックスによる企業への大減税、規制緩和、民営化など、今日では日本でもお馴染みになった新自由主義の市場経済を協力に推し進めました。

 

 アートの世界においてはソーホー地区の老舗ギャラリーを中心に展開していたミニマリズム、ポップ、コンセプチャル・アートが飽和状態に陥り停滞。新たな局面としてジュリアン・シュナ―ベルやデヴィッド・サーレのネオエクスプレショニストを擁したメアリー・ブーン画廊に代表される新規参入のギャラリストたちが登場して、ソーホーのアートシーンは再活性化、アート市場の拡大に繋がりました。やや遅れて、ソーホー地区の数ブロック北東に位置するイーストビレッジではクラブカルチャーやグラフィティアートの若者文化にインスパイアされた独自なアートシーンが形成されつつありました。私もクラスメートの紹介でイーストビレッジ9丁目の小さなアパートに入居しました。

 

 当時のイーストビレッジはインナーシティのゲットー化の後遺症がまだ残る地域で、危険なスポットも点在していました。しかしながら元々下層労働者階級の街であると同時に、50年代のビート詩人などを始めとする“ボヘミアンの街”という歴史的側面を持ち、家賃が低い地区であることからもアーティストや学生に人気が高く活気のある若者の街になりつつありました。順応主義を嫌うアーティストとスラムの住人が出会うマイナーなコミュニティーで、街は自由な雰囲気で溢れていました。8 1年にイーストビレッジ最初の商業画廊、ファンギャラリーがオープンして話題になると、他の若いギャラリスト(ほとんどが素人)たちが空き店舗を改装し、競うようにギャラリーをオープンしました。これまでのメジャーなアートの基準の外だったパンクアートやグラフィティアートをフィーチャーし、キース・へリング、バスキアといったスターアーティストを生み出しました。若者の反乱という意味合いもあって、イーストビレッジはニューヨークでもっともヒップな場所の一つになったのです。

 

 イーストビレッジ・アートシーンは最初にグラフィティ系を扱うギャラリーができ、徐々にネオコンセプチュアリズムといったハイアート系も増えていきました。ポストモダン派の最初のギャラリー、ナチュールモルトのオープンを機にデコンストラクション(脱構築)やハイパーリアルのセオリーをアートの文脈に応用したジェフ・クーンズ、ピーター・ハレー、シャーリー・レヴィン、ハイム・スタインベックなどが注目されました。若者文化の中心地としてブランド化され、ファッショナブルな街へと変身しました。街角にはお洒落なカフェ、ブティック、レストランなどが次々にオープン。週末になれば金持ちのアートコレクターがリムジンでギャラリーに乗りつけるといった光景を目にもしました。ジェントリフィケ―ションの波がイーストビレッジに上陸したのです。そのため不動産や家賃をつり上げる結果となり、87年にはほとんど全てのギャラリーは経済的に立ち行かなくなって店じまい、もしくはソーホーに栄転ということにあいなりました。元々メジャーなアート界への進出を目標にイーストビレッジを踏み台と考えた人たちも少なからずいたようで、ジェフ・クーンズはバスケットボールを使った自分の作品について「アートは白人の若者にとって、黒人の若者のバスケットボール(プロスポーツ)のようなもの」と語っています。

 

 イーストビレッジのアートハイプの終わりを最もよく表したのが、88年に起きたトンプキンス・スクエア公園での警察官による暴動(police riot)事件です。その頃トンプキンス・スクエア公園はホームレスたちが夜を過ごす避難所のような役目をしていましたが、新しく進出してきたヤッピー系の住民やビジネスオーナーからの要請と行政の目論見とが一致したためか、8月のある日、突如公園に現れた警官隊がホームレスはもちろん、公園にたむろする近隣住民を暴力的に追い出しにかかったのです。この掃討作戦、警官たちは明らかに計画的で、始めから警察バッチの番号をテープで覆い隠す周到さで、ホームレスの排除を強行しました。その後も地域住民やアクティビストらの抗議にも拘らず、公園の大部分は高いフェンスで包囲され、夜間は全面的に閉鎖されてしまいました。こうして街全体が管理しやすい空間にgentrify(神士化)されて行ったのです。

 

 80年半ばに私はいわゆる正規のアート教育を修了ましたが、メインストリーム(主流)と呼ばれる西洋中心主義のアート界に疑問を持つこともなく、ただそれに追随しているだけでした。メインストリームのアート界と自分との距離感についても信じ難いほど無自覚でした。商業ベースのアート界では英雄としてのアーティスト、つまりスターを創りだすことがアート市場のために必要であり、「個人」を崇めるネオロマン主義的イデオロギーを最大限に肯定するものでした。しかし一方でメインストリームの同質社会(メンバーシップ)から排除されたマイノリティーのアーティストたちは多様な他者が存在するリアリティーに対応しながらコミュニティーに根差した表現活動を展開していました。私は不覚にも自分の目線がメインストリームにしか向かっていなかったことに気づき、衝撃を受けました。無自覚にメインストリームに迎合、追従するニュートラルな自分に疑問を持ち、それまで自明と思っていた日本人というアイデンティティーについても考えさせられるきっかけとなったのです。

 

 見渡してみれば、ニューヨークには数多くの非営利組織が運営するアートスペースがあります。長い歴史を持つものも含め、それぞれ特徴も様々ですが、基本的には商業的な価値よりも、新しい試みの追求や社会性のあるアートを援助するという姿勢で一致しています。私がよく画廊廻りの途中に立ち寄ったダウンタウンのEXIT ARTやARTISTS SPACE、そしてチャイナタウンにあったART IN GENERALなど政治・社会的なテーマ性をはっきり打ちだした企画展を行なっていました。そしてロウアーイーストサイドにはボヘミア的感性を受け継ぐABC NORIOがあり、アナーキスト系の伝統的なラジカルカルチャーのバックボーンとして重要な位置を占めています。ABC NO RIOからは共同制作グループCOLABやグループマテリアルなどが生まれました。またこの時期エイズ感染が社会問題になり、ホモフォビアなどに対するアーティストたちの危機感からACT UPやグラン・フュリーといったアクティビズムのグループが結成され、積極的な活動を展開しました。更にサースブロンクス地区には当時いち早くヒップホップカルチャーと繋がったファッションモ―ダというアート系のコミュニティーギャラリーの地域に根差した活動が、後のヒップホップの爆発的成功に大きな貢献をしました。その他にもアーティスツランや地域のオルガナイザーたちによって組織された数多くの非営利ギャラリーがあり、そこからの文化発信はメインストリームアートを時として揺さぶり、社会の多様性を受け入れるコンセンサスを創ることに貢献しました。

 

 89年に公開されたスパイク・リーの映画ドゥ・ザ・ライト・シングは白人と黒人の人種間対立や差別のメカニズムを見事に描き、大ヒットしました。もう一つの大衆文化である音楽においてもスラム出身の若い黒人のラッパーたちが自分たちを取り巻く環境について自分たちの言葉で沈黙のコード(掟)を破り、いち早く、人種差別や貧困問題に対して批評するフレームワークを用意しました。私もアジア系のアーティストたちの相互援助ネットワークに参加し、「名誉マイノリティー」とか「永遠の他者」といったアジア人のステレオタイプなどについての討論や、企画展などに参加しました。しかしながらハイアートと呼ばれる西欧中心のアート界はマイノリティーのアーティストたちにとっては長らく象牙の塔、権威の象徴でしかなかったのです。90年にニューミュージアムが開催したTHE DECADE -SHOWや93年のホイットニービエンナーレ以降、ようやく現代アートの世界でも、人種、民族、性差、宗教などの差異を表現するマイノリティーのアーティストたちが注目されるようになりました。

 

 過去を振り返ってみても、グローバル資本主義の中心地であるニューヨークにおいては様々なマイノリティーや小規模なアーティスト集団が重要な役割を担ってきました。特にアート界の権威主義との闘争では、個人化されたアーティストたちよりも、集団として協力するアーティスツグループの方が、公共空間を活用するなど、より成果にこだわってきました。アーティストの活動が個人的であることは当たり前のことですが、同時に他者と協力し合うことの大事さをアーティストなら誰でもが知っています。それにもかかわらず一般的にアート界では個人(スター)が崇められ、集団は無視されるままで、公平な評価が成されているとは言えません。

 

 今日、個人の無力感が蔓延する世界で、人々は自らの力の限界を感じ、自らの能力を過小評価しています。自分たちには何も変えることができないのか?我々は自らをエンパワー(権能化)するチャンネルを見つけなければなりません。

 

 

とし田みつ夫 トシダミツオ

アーティスト

1985年、スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)修士後、アジア系米人芸

術家ネットワークに参加。「アジア/アメリカ」全米巡回展(1994)など数々の

 

展覧会に出展。1998年よりSVAの国際学生プログラム准ディレクター兼講師を経て、2005年帰国。現在は「Art Space赤い家」の運営ディレクター。