~佐藤勤さん訪問~

美濃部民子(日本美術会会員)

佐藤勤氏のアトリエはJR五日市駅から少し行った所にある。

 秋から冬へ移ろうとしている日の午後、尾関朝子さん、菱千代子さんと三人で訪ねた。武蔵五日市駅から菱さんの車でカーナビを頼りに進めばすぐに目的地に到着。いかにも絵描きが住んでいそうなお宅、そこが佐藤さんのアトリエでした。 皇帝ダリアが高く咲き遠くに山や木々がある落ち着いた雰囲気の所。お兄さん一家のお宅の隣にある。一人息子さんは独立していて、奥さんもそちらへ今は行っているとのことで静かなアトリエにクラシック音楽が流れていた。東京都の東の方より気温は2~3度低く石油ストーブの煖が有難い。

 アトリエは大作も描ける広さの中に様々な工具や作品、顔料の瓶や画用液が主(あるじ)に使い易いように配置されている。1980年代終り頃バブルの時代に建てたというアトリエはそこここに主の工夫の手作業が見られ、温もりのある作業場になっている。細密なデッサンをするために机に置かれた傾斜のある台とそれに取り付けられた蒲鉾板の2倍位の角度を微妙に変えられるモチーフ置台には感心させられた。目線の角度設定が自在なのだ。作家の実物に促した緻密な観察があの大作の礎になっていることが良く判る。作品の中によく出てくるバベルの塔のような形の基本型の小さな模型も石膏で作ってあった。光の変化などやはり実物に即さないと嘘っぽくなってしまうそうだ。虚の空間を構成するには小さなリアルの積み重ねが必要なのだ。そんなアトリエの諸々の道具と画家佐藤勤の歴史が積み重なっている空間で主の来し方を聞いた。

 

山形から東京へ

 山形県村山市に1949年生まれの氏は工作好きの子供だった。長男が大切で後取りとして特別な扱いを受ける時代、次男として特別な期待もされず、その分伸び伸びと育った。次男の高校進学にも積極的でなかった両親を説き伏せ高校に進学。高校時代に作った立体作品「友だちの首」が県展に入選。朝礼で全校生徒の前に呼ばれる晴れがましい印象的な出来事となる。中学、高校の頃、当時山形大学生だった従兄弟の家へ遊びに行き「美術手帳」や「みづゑ」に触れ、美術の授業とは別の美術の存在を知る。

 その頃両親が頼りにしていた長兄が東京へ行ってしまい、次男である彼が大切にされ始めた。そんなことへの反発もあり、高校を卒業し地元で就職した彼はある日「山形市に絵の具買いに行ってくる」と言い残し大きな大きな野望だけを荷台に括り付けバイクに跨り一路東京へ。目差すは兄の家。しかし目差されたお兄さんだって困る。周囲から説得されて佐藤青年は纏ったお金をまず得なければと、山形の地元からの出稼ぎ団の一員となり飯場暮しで働きお金を貯めたそうだ。その頃お兄さんは中島保彦氏やいわさきちひろさんとの知己を得て民美を紹介されていたそうだ。

 いくばくかの大金!を手にした佐藤青年に「民美二期生募集」のニュースが届く。早速入学。当時の講師陣は永井潔所長、を始め小室寛、渡辺皓司、新美猛、柴田龍司、小野忠重、本郷新、中谷泰、中島保彦、藤井哲各氏などが居、永井所長個人のつてで画壇で活躍中の様々な美術家の話が聴けたのは大変印象的で興味深いものだったという。

 佐藤青年は早朝に牛乳配達、午前中は新宿美術研究所、夜は民美と若くなければできない精力的な毎日を送り、夢の実現へ頑張り始めた。民美の同期生には前田久子さん、山崎康子さん、蟹江恵三さん、星野文和さん、故平岩攻さんらがいた。1970年代主要都市に次々と革新知事が誕生する元気な上向きの時代だった。

 二年間の民美研究所を終え、まだ海のものとも山のものともつかない佐藤青年は地元(東京杉並)で地域活動に精を出しつつ、お金のある時は新宿美術研究所で裸婦デッサンに励んだ。あまりの地域活動の多忙さから絵を描く時間もないため転居を決意する。府中と小金井の間のアパートに居を定め武蔵野美術文化の会と巡り合う。会の主宰する研究所に週二回通い、武蔵野アンデパンダン展に出品を始める。そこで武蔵野美大の卒業生やその他の絵を描き続けている人たちと知り合うことができた。 民美4期生だった光子さんと結婚もし、いよいよ東京に腰を据えた生活が始まる。しかし二人とも定職につかずお金が底をついたらアルバイト、近くの川で魚を釣るなどといった若さに頼った暢気な生活では創作も生まれず、その頃の作品をスライドで見せてもらったが、(そのスライドを見る台も手製)悶々と悩む作品が多かった。実物をそのまま写す写生画から画面の中での色と形を意識した創作へ。その足跡が見て取れた。「よそから来た犬」という作品がありその頃描かれたものだが、私には佐藤さんの自画像のように思えた。

自称画家からの脱却

そんな青年にも月日が流れいつしか壮年に。そこで佐藤夫妻は家族を増やそうと決意する。佐藤さんは画家を続け佐藤夫人は給与生活者となり、一家は新しい展開を迎える。

 五日市市に絵のグループが誕生し絵描き仲間と家族ぐるみの交流を持つようになる。芸大や美大を卒業した同世代の画家たちとの付き合いは様々な情報交換の場でもあり世界が広がったことだろう。バーベキューなどを各家回り持ちでやった思い出を楽しそうに話してくれた。    

 自称画家からの脱却。佐藤さんは公募展、春陽会への出品を始め数多く開催されるコンクールに出品し入選、大賞受賞を重ね画家としての存在を社会に知らしめていく。精力的な創作を続けていく中、油彩画の乾燥のリズムが自分の創作や思考のスピードに合わないように感じテンペラ画の研究を始める。殆ど独学で研究したという佐藤さんの手許には附箋が沢山付けられたマックス・デルナー著「絵画技術体系」やド・ラングレ著「油彩画の技術」が読み込まれた様子であった。そして今やテンペラ技法といえば佐藤勤と言われるようになっている。

 佐藤さんのお父様は戦争に行っている。アッツ島玉砕の生き残りの一人だとか。その父上が89歳で亡くなられた時、オマージュとして描いた作品に平面の一部に立体を組み込んだ作品を制作する。戦争はたとえ父親の体験だとしても描こうとすると今までの描き方ではその重さに対して不十分だと思えたのだろうが、立体と平面が混在する作品ではかなわぬ作品がすでにあると知り、混在させずに合体させる方向に向かう。春陽会などで色々批判も出たとみるやコンクールに出品し受賞してしまう。文句を言う人もなくなり佐藤さんの作品として定着しつつある。こうと思ったらねばり強く遣り遂げる根性の人だ。

 

民美所長の現在に

 現在民美所長を務めている佐藤さんは、民美50年の推移を団塊の世代の年齢と共にあると分析する。団塊の世代が20代の頃は民美にも20代の若者が溢れ、団塊の世代が30代40代の頃は民美応募者が激減。そして団塊世代が退職するとまた民美にはシニア層が沢山来てくれる、といった具合だ。ますます高齢者の割合が増加する中で、若者向けとは違う指導方法を探る必要があるのでないかと提案している。