「根岸君夫油彩画展」を見て

武田昭一  たけだしょういち (日本美術会会員)

 7月21日から27日まで、上尾において根岸君夫油彩画展があり、見てきました。

 80歳の節目を迎えての回顧展(これとほぼ同時に画集も刊行されました)とかで、根岸さんの60年余の歳月を大きく俯瞰する見ごたえのある個展でした。わたしにとって興味津々だったのは、私の知っている根岸さんになる前に、どんな画風をたどってきたのか、ということでした。時系列で並べた約70点の作品群の要所要所にそれぞれの時代の自画像を配置しているので、時間の流れがわかります。高校時代から、大学生の時代までさかのぼり、抽象の時代、労働者の現場をリアルにえがいた時代、そして、おなじみの秩父事件シリーズを経て現在まで、「根岸リアリズム」というと語弊があるかもしれませんが、根岸さんの真摯さと卓抜な技術が結晶した画面を堪能するとともに、何をどのように描くか、求め続けてきたその軌跡に納得もしました。

 

 関心の第一は、「操車場のはずれ」という、私はスライドでしか見たことのなかった一作でした。旧国鉄大宮操車場を描いた風景画で、1968年、第21回アンデパンダン展の出品作とのことです。早春を思わせる柔らかな光の描写がすばらしく、私は特に地べたの光の反射に見とれます。根岸さんによれば、21回展を振り返る日美の座談会があったとき、この作品を巡って議論があった、ということです。それで、古い「美術運動」誌(82号)の当該記事を見てみたら、なるほど、中島保彦さんや落合茂さんが、「操車場なのに労働者の気配がなく、現場をとらえる姿勢が弱いのではないか」というような趣旨の指摘をし、それに対し、林文雄さんが「小春日和の日差しの中に展開する広さ、空気、光と影がしっとりとした情感のなかに捉えられている」として支持する立場をとり、藤野まゆみさんも「写実一般の否定に傾きがちな状況を批判し、描写の領域の深さを考えたい」立場から、これを支持し、双方、この作品の「うまさ」を認めながら、今の現実に向かい合うとき、必要な技術とは何か、という技術論へと座談会は展開してゆきます。なかなか緊迫感があり、重みのある討論で、具体的で生々しいだけに、意気軒昂、丁々発止とやりあっていた当時の熱気が伝わってきますが、その議論の一つのポイントとしてこの絵があったということに、改めて感慨がわきました。

「操車場」に先立つ1967年の「立つ」はベトナム戦争下の母と子を描いて平和美術展の話題作となりました。「進水」(1969年)「旋盤作業」(1970年)の両作もすばらしいと思いました。働く人の姿やその現場というのは、教員組合の活動経験を通して得た根岸さんの当然の目のやり場と思いますが、現場の持つすごみを感じる一方、リアルな描写のなかに漂う抒情性(たとえば、「旋盤」の若い労働者の表情には、背後の「家族」が感じられる)に引き込まれます。それにくらべると、「立つ」はやや、観念的な感じもしますが、同時代をすごしてきたものとして、共有している感情がじわーっとこみ上げてきます。それから光の表現――。「進水」の船体に当たる日光、「旋盤」の機械の反射光について、一緒に見ていた人たちも共通の印象として語っていましたが、「操車場」や「谷川岳の見える里」、画集にあって会場にはなかった「川口風景」(1970年)などの光の描写は、これはまちがいなく根岸さんのものと思い、今回展のなかには風景画が比較的少なかったのが、残念でした。

 

 それから、展示されずに別室に置かれていた「ゆくて」(1961年)という作品を特別に見せてもらいました。抽象画時代から、再び具象に移行する過渡期と思われるもので、これが大変面白いと思いました。やや平面的に描かれた3人半の労働者が並んで1本の長い棒を持ち、背景は人物の色と形に合わせて幾何学的に色面構成されている。横一直線の棒の下には人物の足があるはずだが、これが描かれていなくて、背景の色面構成の中に溶け込んでしまっている。ごまかした、と本人はいわれるが、私はこのごまかしが面白く思えて、根岸さんがもしこの方向で進んでいったらどうなったか、などと、ミステリアスな空想をしてしまいました。「ごまかし」というか、気取っていえば虚の視覚化というか、近松の「虚実皮膜論」ではないけれど、虚と実のあんばいで次第で、面白さが変化するんだなぁ、などと思いながら見ていました。ちなみに、根岸さんの何点かの自画像が、絵筆を左手で持っている、背景にあるポスターの文字が左字になっている。自分を見るのは鏡によるしかないから、左右逆になるのはその通りで、自画像だからしかたない、とは思うけれど、鏡像を「虚」の目によって鏡像でなくしてしまうやり方というのはどうだろう?リアリズムとしてどうなのか―、うーん、と頭を抱えますが、根岸さんの道においてそれは「否」ということになると、「表現」というものはむずかしいものです。「実」の比率がたかまると、「虚」が引っ込む。そうなれば「虚」の気楽さ、というか、遊んでやるという自由さが引っ込んで、窮屈な面がせり出してこないか―、「追慕の海」でなんとなく苦戦しているように見えるのも、この虚と実のせめぎあい、(あるいはすれちがい?)に関係ありはしないか、などと生意気な妄想は漂っていきました。

 

 定評のある人物画(今回展の中心)、根岸さんの社会的な問題意識の到達点ともいえる、周知の「秩父事件シリーズ」(今回4点だけでした)については、いまさらめくので、省略させてもらいます。でも、たくさんあった人物画について、何も言わないのは無責任かもしれないので、近作から好みで選んで題名だけ――、「コートの婦人」、「大村泰子さんの像」、「画家の像」。

 

 私の、この展覧会に臨む最初の気持ちが、根岸さんの絵の源流と、流れの軌跡を見てみたい、という気持ちだったので、昔の作品にばかり心を奪われる偏向を来したことを、申し訳なく思います。私の関心に照らして欲張りを言えば、風景画の一群( 片田舎の、しばらくそこにへたり込んでいたくなるような風景たくさん!)をさらに見せていただく機会があれば、と願って終わりにします。(2016.9)