鴨居玲展(そごう美術館)と長谷川燐二郎展(平塚美術館)を見る


批評家坂崎乙郎氏の批評が力をもっていた時期があり、鴨居の作品,生き方を絶賛していました。紀伊国屋画廊や日動画廊で何作か鴨居の作を見たことが有ります。しかしこれだけまとめてみるのは初めてでした。黒の中からでてきたような、(パンドルを大量に使っていたという)何を描いているかわからずに、それでもやっと老人のアタマだけあらわれてくるような油彩。ちどり足で歩く酔っ払った老人の素描、空中から降りてきたような、(神がサイコロを落としたような)青い教会の油彩など目につき、印象的なものでした。油彩の輝きが迫力を作る時もあります。
しかし全体の、一生の仕事として見ると意外と感銘は薄い。
黒の単調さ、(グレコや、テイントレットの光や多彩な色を包み込んだ黒は美しい)モチーフもヨーロッパのイナカの酔っ払いの老人というパターンにくくられやすく、その人物達にもなにか感情移入することもむつかしく、映像の一場面と思ってしまいます。画廊主?夫人を描いた作など師の宮本三郎の表面的な素描にそっくりで、ガッカリ。師の影響とは強いものでこれから逃れるのは難しかったようです。
裸婦の作もあり、立っている二人の作などドガを思わせるものもありましたが、裸婦の後姿を描いたもの、ドガの作で心打たれる「見ること,描くことへの執念」とは比べようがありません。画面の中に、「自分」という描いていた主体、そのものが実体として、それこそ目と身体そのものが現れてくるのではと思わせる作品。画面を見ていくと、その形の震えは形や感覚がいきつけるところまでいっているのでは、そのような作をドガは作っています。ミューズや死は画面で踊っているのではなく、画面の外でたわむれているようなのは残念です。

そごう美術館はデパートのなかですが、平塚美術館から15分ほど歩き、美術館がある公園にいつきます。市役所の前にあったようでした。鴨居展より2月ほど前でしたか燐二郎展は。
燐二郎はブレヒトその他の訳、シベリア物語等で少し読んだこともある四郎の兄弟ということでした。猫の画家と思ったが、それは2点だけでした。ここで猫の履歴書?という愛ネコを紹介した傑作な文もあった。
戦前パリへも行った、自分のペースで製作したと思われる、80歳すぎで亡くなった画家。ほとんど小品ですが、時間をこめ描かれた作というのはすぐわかります。ルソーに近いといってもあのアクのつよさはありません。
静物画は白を使い、何か、白茶けたような印象があるが、樹木を描いた作は好きです。見るものと見られるもの、空気のなかにつながるような、電気のない電流があることを信じさせるような作です。描いているうちにその静かな電流のようなものが動き出し、それが画面の外でドラマをおこしたような、その後にのこっている電流の放電のあとようなものを、作品鑑賞者は樹木をみているうちに感じます。私達は画面の絵の具の緑をみるしかないのですが、この貴重な色彩というもの、それはどこから、この色はきたものかという空想に誘います。
あまりにも今年の夏の光が強く、植物と人間とは隔絶したものだなあと公園の夏の樹木、欅を見、お寺の楠等を見るのですが、このうだる暑さの中裸の強さをますますあらわしてくるような樹木、その形と色に圧倒されるのなか、あの静かな画面を思うのは不思議な経験です。(編集委員O)