未来につながるアートとは

首藤 教之 (しゅどうのりゆき・美術家・日本美術会代表)

「美術」か、「アート」か。「美術」と言うと、なにがしか因習的な匂いがつきまとって来てしまう。「アート」と言うと、幅広く現代的でありそうだが、その分曖昧でたよりない感じがする。時として軽薄な印象を漂わすこともある。こうして、我々が日々真剣に取り組んでいる筈の表現行為がすっきりした名を持っていないとは、奇妙なことであり、不運にも思えるのだが。―――しかし、翻って考えて見れば、そのネーミングの状態自身がその不明さの反映なのだろう。さらに、こんな疑問も起こってくる。―――そもそも、無限と言っていい程に多様化する表現行動について新たな分類概念が必要なのではないか、など。

現代の美術シーンは国外・国内を問わず、各地のさまざまなトリエンナーレ、ビエンナーレの動向を軸にして語られており、それは現在、さらに加速中とも言えそうだ。旧来の「公募展」世界は一部の関係者の特殊世界、時代の要請からかけ離れた世界として扱われているように見える。

それらのビエンナーレ等で、平面に絵具などの材料で創られた作品がほとんど見られないのは今に始まったことではない。近年特に目立つ傾向はと言えば映像表現の増加だ。デジタル技術の発展によって、ビエンナーレだけでなく「アート」世界全体の顔は塗り変えられて行くのだろう。若者の世界では「書」の流行が語られている。しかしそれは伝統的なものをなぞるのではなく、ハンドワーク、身体的表現による一種のドローイングとして興味を持たれているようだ。ここではコンピュータによる表現への飽き足らなさが現れていると見るのが自然だろう。

大きな美術館の壁に大きな作品というのが「力作」で「純粋美術」の本領という志向は現実から乖離し続け、社会の別の時空で「アート・シーン」は拡大し、常識となりつつある。

その中には、やはり従来と変らずに権威主義や経済的欲望も新しい形で渦巻いていて、その波間に純粋な新しい美術の萌芽が見えかくれしているというのが現実なのだろうか。

 

そして、そのような道を辿りつつ、美術はどこへ向かって行くのだろうか。

多様化する現実のアート・シーンの中で、未来につながる要素に気付くことも無い訳ではない。

年1回開催でやがて第20回を迎える「グリーン・バイブレーション」というアート・イベントもそれだ。横浜市港北区の丘陵にある、昭和初期に建てられた大倉山記念館という歴史的建築のギャラリーで毎年開かれる。最初、プロの美術家でなく地域のあそこでなにかやってみたいというアート好きの若い主婦グループ等を軸にこの展覧会は生まれた。 

20年間、変更することの無かった呼びかけの文章はこう言う。

「この作品展は、一人ひとりの心のメッセージです。芸術家でも、またその技法も持たない人でも、心を開放し自由な表現でジャンルにこだわらず形にしようとという試みです。形あるものから無へ、無から形あるものへ・・・という繰り返しの中、今この場所で私たちは個々の存在を表現し、そして出会いの空間にしたいと思います」。

「作品要項」には「ジャンルは問いません。あなたの自由な手法と発想で・・・」とあり、それ以上の説明はない。既成概念から離れている。

「“偉い先生”に見ていただく、という考えは最初から無かった」というスタッフたちが大切にしているのは人々の自由と、そこから生まれ育つ個性と創造性であり、次々に生まれる出品者や来場者たちの間の交流とつながりだ。「理論的」な説明も大言壮語もない親しみの中で、作品はいつもあらゆる表現方法で、自らの「自由さ」の程度を試すようにユニークさを発揮する。家族や友達の中に影響を受けた新しい「創る人」が生まれ、子どもたちのコーナーも設けられる。近年ホールでの音楽イベントも始まり、新たな拡がりが見られるようになった。

これらが、既成の美術世界から離れたところで、さまざまな欲得に無縁、自由自在の形で開かれ続けている。この屈託のない無名の世界に僕は未来の美術・芸術につながるものをいつも直感している。