越後妻有アートトリエンナーレにおける10年間の土壁プロジェクトを通して ―生活とアートの融合を考えるきっかけとしてー


村木 薫

1.はじめに(10年間の経緯)
2000年の第1回越後妻有アートトリエンナーレに参加し、その後、毎年1棟ずつ在来工法(土壁)による民家の修復を行ってきた。2009年までに計8棟の民家を修復したことになる。主な修景プロジェクト参加メンバーは新潟県立魚沼テクノスクール左官科の生徒たち、地元の大工さん、そして旧松代町商店街近隣の人々である。
2000年~2002年までは、旧松代町役場企画課の職員と一緒になって、この活動に関心を持ち協力してくれる施主さんと直接交渉をしながら制作してきた。しかし、2003年からはアートフロントギャラリー及び商工会議所との連携した窓口が生まれる。2008年に商工会議所主催の土壁プロジェクトの将来に向けた勉強会を地元で開催し、このプロジェクトのねらいや現状を話し合った。そして、現在まで、旧松代町商店街を中心にした多くの人たちとの協働のもとで継続してきた。
工事費に関しては、改修に伴う左官工事、大工工事は芸術祭の費用から負担し、足場代は施主から支払ってもらうという一定の約束を作り、それぞれの負担の割合を考えながら継続してきた。ここでは、この実践を通してアートプロジェクトの意義や今後の課題を考えてみたい。

2.ねらい・成果と課題
このプロジェクトの意図は、1)景観としての文化の力の蓄積。2)地域の誇りや愛着の目覚め。3)平穏無事の美を目指すなどである。そして最終的に地域生活の活性化につなげることにある。

1)修景プロジェクトに用いた主な素材は、土壁と木材である。特に土壁塗りは誰にでも扱いやすい素材であり、参加する人にとって土の感触を味わいながらの体験となる。汚れて汚くなるのではなく、美しいほろび方をする素材である。また、記憶を刻みつけられる可塑性や古い木質の手触りや時間のしみ込んだたたずまいなど、経年変化をきちんと受け止められる素材の構成でもある。それは、人生の記憶を刻みつける風景に通じ、街並みに持続的な職人の手触り感の蓄積を生みだすことになるのではないだろうか。
かつて旅籠屋がたくさん並んでいたこの歴史的な街並みが、車が走り抜けて、モノだけが移動する経済効率優先の道路の一部となっている。そして、周辺の農村生活を支えていた商店街の街並みは失われてしまった。また、使い捨てでゴミばかり生み出すシステムや建ててはすぐに壊すスクラップ&ビルドという産業構造に疑問を感じていた。その疑問に対する一部の活動を、生活(衣・食・住)を支えていた様々な生産活動や関係性に敬意を払い、アートとして実際に街並みを協働制作で作っていくことで、何か変わっていくことが出来ないだろうかと考えた。そこは、地形上からも必然的に賑わいのあった場所であり、そのことを引き出していく行為と言い換えることもできる。また、経済発展の時代なら見過ごしてしまう非効率なものに目を向けさせる仲介者としての役割を果たしているとも考えられる。結果として、現代という時間の流れの中において、他のどこにもない生活コミュニティー空間に変わり、本当の豊かさを共有できる街並みになることを目的としている。
数十年後の美術界の評価に任せなければならないことであるが、現場からの声を聞き、提案していくというサイトスペシフィック型のアートが現代において支持されてきている所以ではないだろうか。
豊かさはモノ自体ではなく「人とモノ」や「人と人」との関係性の中にあるといえる。また、持続する行為の中から共有の財産を作り、共有の富が文化となるはずである。ただし、まだ10年しか継続していないので景観としての大きな変化は見えていない。しかし、毎年1棟ずつ、夏の一時期に地域の人々が集まって、年中行事の一環として協働制作を続けることに意義があるのではないだろうかと思っている。

2)に関しては、経済効率ではない手作り感のある町づくりを行うことで、さまざまな職を持つ人たちの自由な参加が可能になり、私と隣近所の人たちという意識がつながり、そこで将来のことや希望を語り合う場が少しずつ生まれてきていることを感じる。
普段忘れていた自分の身体を包み込んでいる大地、個人の記憶や社会の記憶などが呼び覚まされ、自然とコミュニティーのあり方という話題につながっていった。それらを共有することによって、人間の生き甲斐を多くの人々と分かち合うという帰属意識を持つことができる。これらは、特に現代という縦の時間が分断されてしまった日本人にとって、もう一度意識しなければいけないことではないだろうか。人の幸福感、そして死生観にまでつながる事がらを直視し、そして問題視するところに、アートという手法で関わり、前向きな答えを探していくことで普段忘れている自分の周りへの愛着や誇りをよびさましたいと考えた。
しかし、課題は中山間地での若手の経営者や後継者などの不足であり、本来共有すべき歴史性が伝えられにくく、商店街を支える大きな運動体としては十分に育っていないという問題点がある。また、十日町市との合併や区長の交代などで、コミュニティー意識やアイデンティティーの継続が弱くなっていることなどが気になることである。私は、コミュニティーを成立させるための大切な要素として地域の商店街の活性化は大きな可能性を持ち、必要不可欠なものと考えている。しかし、その生活を支えている構造自体が、車社会の繁栄に飲み込まれ、多くの集客を郊外型の大型店舗に吸収されるしくみになっており、小規模経営型の店舗の弱体化しているところに大きな問題が隠されている。特に公共交通機関が発達していない地域では現代生活を支えているのが車であり、それらに頼らない意識を持つことは容易なことではない。しかし、高齢化が全国的に進む中で、車を使わず、歩いて買い物が出来る商店街の必要性も差し迫った問題として浮かび上がってくるのではないだろうか。

3)に関しては、私の美意識を一方的に押し付けるのではなく(最初は押しつけであったと思うが)商店街という地域の将来のあり方を話し合いながら実践してきた。日常生活が垣間見られるような肩の凝らない健康な街並み、少し崩れた何気ない普通の街、周辺の山や川や土地の由来を大事にすること、そして、土や木材など地場の材料や技術を優先することなどを気にしながら制作を継続した。
「人間は自然に内包される」というキャッチフレーズのように、この土地や普段の日常生活の一部に寄り添うことを制作の基準とした。また、それはモノだけの美ではなく、その関係性の中に現れる生き方も問われることになる。協働制作の作法という意味でもある。課題は、この地域でも都市化の波が押し寄せてきており、新建材で建てられている建物が圧倒的に多いということである。在来工法の家を探すことが年々困難になってきている。
ちなみに「平穏無事の美」という言葉は景観工学の中村良夫氏の言葉から引用させていただいた。美というものは、画一化しないことが積極的に許される価値観である。また、その場所、そこを流れる時間、人、自然、風土に根差したところから必然的に生まれるものに寄り添い、命が終わるまで見届けるという「生きる作法」と深くつながるものである。そのことに敬意を払い、そこが持っているポテンシャルを引き出す作業と言い換えてもいいのかもしれない。

3.まとめ
生活を見つめるときのひとつの手段として生活の風景があげられる。美術家としてこの場所に最初に関わった時に、ここの場所性、風土、歴史などが気になった。戦後、日本人は、経済効率中心の大量消費型のモノづくりが主流となり、人とモノの関係の中にある当たり前の秩序に無関心になってはいなかったかという反省が今回のプロジェクトの出発点である。また、先人達がそこで苦労しながら一生懸命生きてきた場所は力を持っているということをどこかで感じてきた。1年に1回共に汗を流すことにどこか心地よさを感じてきたことも事実であり、日本の原風景ともいえる里山を背景としていることもこのプロジェクトを強く後押ししてくれた要因でもある。
10年間継続した「土壁による修景プロジェクト」は目に見える範囲で商店街のコミュニティー空間に働きかけるものであり、まだ見えない形に対して、未来を語りながら、お互いに持っている能力や技術を様々な人々が提供し合いつつ、美しくしたいという思いから汗を流した行為といえる。
継続するプロジェクト型のアートは、最初に青写真はあっても、その場その場で様々な人々との対話(コミュニケーション)を通して作品を作り上げるプロセスの中で、いつでも変更が起こりうるが、そこで一方的な押し付けではない相互理解、そして、アートの理解が生まれる優れた手段であると考えられる。絵や彫刻などの物質的な要素が優先する作品ではなく、プロセスや鑑賞者とのコミュニケーション、また社会の諸問題にアプローチする作品作りとして近年様々な場所で取り組まれている手法でもある。私がこの手法で取り組む大きな理由のひとつは、作品は一個のモノとして独立して存在するのではなく、必ずその背景に「今という時間」や「現代という時代」、また「この場所という空間」にきちんと向き合うことなくして作品の意味はないと考えるからである。
 このアートプロジェクトは10年しかたっておらず、まだ継続する余地を残している。今回出てきている課題は全国の中山間地域が抱えている課題でもあり、モノだけでは解決できない様々な関係性を考えていくきっかけになっているのではないだろうか。それと同時に現代への不安に対する解答の一つとして未来に伝えられる試みであってほしいと願わずにいられない。


2010.12.14 村木 薫