エッセイ


かわらないこと 民美所長 西村 幸生

何時の事だったろうか、誰かの個展のオープニングの流れでか、数人で飲み屋を探していた。週末の新宿はどこも人で溢れていて、すぐに座れるところはなかった。何軒か当たったとき、店員が「空きましたらお知らせしますので電話番号を書いてください。」私は、電話番号を書こうとして思わず手を止めた。自宅の電話番号を書こうとしていたのだ、ケータイを持たない私にとって電話番号といわれて自宅しか思い浮かばなかったのだ。

世の中の動きと少しずつずれてきていると感じ出したのは何時からの事だろうか、はっきりとしたものではないが、そんな自分が決していやではない、ずれていく部分とずれていかない部分を自分の中で見つめていくのは、ある種楽しいような気さえしているのですが。

私のかかわっているもののひとつに、日本美術会の附属研究所があります。この「民美」という研究所も出来て44年経ちますが、この半世紀近い時間の中では、世の中の流れの中での浮き沈みがあります。初期の15年は応募者を断ることに苦労し、その後の15年は研究所を維持していくことに苦労し、最近の十数年は、安定した中で、創設時の理念とのずれに存在の意味を問い直すような状態になっています。かって20代や30代の青年が熱気を放っていたアトリエは、50代や60代の大人の熱気に取って代わりました。

よく言われる「団塊の世代」の前後より古い世代の人たち、日本が高度成長の時代に入る前に少年期を過ごし、自己形成をした世代にとっては、美術なり絵画を通して自己表現することは、新鮮で魅力あることだったのでしょう。それに比べて、高度成長時代以後に育ってきた世代の人たちは、家庭にテレビのあることは当たり前であり、遊びの大きな部分をテレビゲームが占め、最近ではコンピュターを使うことで社会にかかわっている世代の人たちは、映像に慣れているためか「絵画」による自己表現は面倒に感じるのでしょうか、油彩のような世界に魅力を感じられないのでしょう。そんなことを考えていると、民美に来る人たちは、創立時と現在の年代の違いはありながら来ている世代は変わらないのではないかと思ってしまいます。青年時代から美術に関れた人と、青年時代に関りたいという気持ちはありながら生活のためなどいろいろな事情で取り組めなかった人が定年を間近に控えて、来ているという感じがします。

以前は生徒も講師もお互いに若くて共に何かを作り出していこうという感じが強かったものが、生徒の高齢化により講師も指導するという側面が強くなってきたように思えます。それだけに講師の熟練、指導力が求められているのでしょう。しかし一方では民美がカルチャー化してきたという声も聞こえてきます。そんな中、民美は百名弱の生徒が集まりかってない中年パーワーに満たされていることも事実です。団塊の世代がいなくなった後のことを心配しても仕方ないのですが、以前、亡くなられた大川美術館の大川さんにお話をうかがったとき、私が「そのうち油絵を描く人がいなくなるのではないですか」と問うと、楽観的な調子で「アルタミラ以来人間が絵を描くことをやめる事はありません」といわれたことが今も心に残っています。

 (にしむらこうせい・日本美術会附属研究所「民美」所長・画家)