地方の美術運動を探る 広島・上下町でのささやかな実践


古森 旭

「美術運動」誌の編集担当者から広島での美術運動について何か書いてくれという依頼を受け私は大変困った。まず、私には美術運動といえるものの持ち合わ せがない。それと私の住んでいるところは広島市から100kmもはなれた山間地区であり広島市の中心部にあった美術運動とは距離的に遠く、それらの活動の 外側にしかいなかった。故柿手春三、故下村仁一、いまはご病気の四国五郎等やヒロシマの平和美術を確立した先人たちの活動の外側にしかいなかった。そうい う事情から編集氏の依頼にきちんとこたえられないというおもいが強く、大変困ったのである。

 

私の自己紹介
 私は広島県北の府中市上下(じょうげ)町というところに生まれ、住んでいる。広島市中心部から約100km。人口約5千5百人、高齢化率38.3%、全 国どこにでもある過疎地である。私が旧制中学1年13才、1945年8月6日ヒロシマに原爆が落とされた。翌日から福塩線というローカル線で次々に被爆者 が送りかえされてきた。上下町警察の武徳殿という柔剣道の稽古場が怪我人の臨時収容所になった。勤労奉仕で出校していた中学1年の私が見たその時の情景は 後に私が絵を描くことになる原点となった。

私の教職時代のこと
 私は京都の美術大学(現在の京都芸大)を出て県立高の美術教師になった。その時代のささやかな実践の中に「語り継ぐ戦争体験、 父から母から 高校生の追体験」というのがある。このことについて当時の文章が残っているので抜粋で紹介すると、

 

  • 1974年の夏休みに私の担当する美術選択の生徒へ課題を出した。それは「父母家族等から戦争に関する話を聞き、それを淡彩スケッチと文章にせよ」というものであった。
  • 2学期になり学園祭で展示し、生徒、教職員等から大きな反響を得た。
  • 1977年に入ってスライド化され、1年後には英語版も完成しアメリカの平和会議へも持参され、ロスアンゼルス・クラレモント高校ほかでも上映された。
    この取り組みは私の転勤後も地元の上下高校でも続き、同様のことが10数年続いたことになる。1985年上下高校でスライドが完成した時のレジュメに私は次のようなことを記している。
  • 語る親が年々若くなり戦争を知らない世代がふえた。この課題がいつまでやれるか少し心配である。
  • 戦争はいつでも正義の顔をしてやってくる。その時、今の子どもたちが強く戦争を拒否できる「ちから」を持っているだろうか?その「ちから」を大人たちがつけてやっているだろうか?・・・・・と。

 

昨年「原爆・平和を中心テーマとして古森 旭絵画展」というのをやっていただき、そのギャラリーイベントで久々スライド上映があり、来場者の再評価を得た。

 

芝居のこと
 私は芝居も好きである。京都美大時代に「京都芸術劇場」チーフ岩田直二さん宅に下宿していた縁もあり芝居好きになった。
 私の住む上下町に「つちのこ劇団」というグループがある。彼等は芝居だけをするのではなく、ふるさとの町おこしに実に積極的に参画するのである。町中にある「翁山」という山全体に電飾する「世界一翁山の電飾ツリー」は彼等の努力で実現された。彼等の素人芝居は1984年から始まる。第3回公演の街頭マンガドラマ「文豪田山花袋がやってきた」は独特なイベントとなった。花袋の随筆に「備後の山中」というのがある。明治39年に愛弟子である岡田美知代を生家に訪れるのである。この話をベースに、当時の風俗、バイオリン弾き、金魚売り、オイチニの薬売り、三味線弾きなどおる通りに、人力車に乗った花袋先生がやってくるのである。旧上下町の中心道路約300mの縦半分が演技場、残り半分が観客立ち見席である。夜の移動しながらの芝居であるからスタッフ、特に照明係は町中の電源確保に大童、観客席は通行もままならぬほどの人出だった。以後第10回公演までよく続けたものである。私はこの間、作並びに演出、舞台美術係として楽しく遊ばせて貰った。現在もこのグループの素人芝居は続き、町づくりのイベント等で賑やかにやっている。


ミニギャラリーのこと
 「ギャラリー白壁」という小さな展示場が上下町の真ん中にある。旧い商家の一角を借用して造った手づくりのギャラリーである。地元の絵の好きな者4名ではじめ、既に3年が経過した。1か月毎に展示内容を変え町内外の作家の作品を展示している。会場の開閉にはご近所の方々の奉仕もいただいている。

以上、私のささやかな実践を記したが、お恥ずかしい次第である。(2010、10)