現代の美術がいる場所


宮田徹也(日本近代美術思想史研究)

はじめに
成人美術家が作品を制作し発表する。これほど単純な作業が、現代のこの国では困難を極める。これを、2009年の展覧会を元に論考する。

序説・制作の前提と限定
先ず考慮に入れなければならないのは、現代においてどのような作品でも制作できるということはないという事実だ。大浦信行は1980年代前半に、昭和天皇、解剖図、髑髏、裸婦等がモンタージュされた《遠近を抱えて》という14枚の連作版画を制作した。この作品は1986年、富山県立近代美術館で展示された後に検閲され、美術館が購入した作品が匿名の個人に売却、掲載されたカタログが焼却処分された。大浦は「表現の自由」を元に裁判を起したが、このような前例がないことを理由に敗訴した。大浦はその後、映像作品を数多く制作する。《遠近を抱えて》は2009年4月にも沖縄県立博物館・美術館で開催された「アトミックサンシャインの中へ in 沖縄」に展示予定であったが、県教育委員会や県立博物館・美術館が「教育的配慮」の観点から「自由な裁量権」を行使し、展示中止に追い込まれた事件が発生した。ここにある「教育的配慮」とは、沖縄県立博物館・美術館館長、牧野浩隆によると「教育基本法」および「学習指導要項」に基づき、「小学校学習指導要項」および「中学校学習指導要項」には「天皇についての理解と敬愛の念を深める」と記されているため、天皇の写真をコラージュした《遠近を抱えて》は沖縄県立博物館・美術館における展示に「ふさわしくない」という「自由裁量」を行ったとしている(「教育的配慮と自由裁量上・中・下」沖縄タイムス6月17~19日付)。今回は告訴に至っていないが、「表現の自由」は美術館による「自由裁量」に託されてしまうことが富山での裁判の延長にあると言えよう。このような動向を目にすると、日本の美術界、否、この国の今日の倫理観は1950年代どころかそれ以前の、明治期に遡る皇国史観に後退しているという恐怖を感じざるを得ないのである。その中で、作家は自由に作品を描くことができるのだろうか。

1.作品を発表する場所
作品を発表する場所について、主催者を考慮に入れて考察する。国が主体となり、次に県、市、そして民間、批評家を含めたキュレーター、作家となるのは、この国において幻想である。文化庁管轄の国立メディア芸術総合センターは10月16日の閣議決定により予算執行が停止され、設立は撤回された。既に国立美術館は2001年に独立行政法人化しており、2007年の国立新美術館が登場したとしても、国が公に美術館を経営する時代は終ったのである。2009年11月から実施された事業仕分けにより芸術文化振興基金の予算が削減され、中央教育審議会初等中等教育課程部会の中でも「美術、音楽を選択教科にしては」という声が多い。未曾有の不景気の中で画廊がその存在危機に見舞われ、個人の所得も危うくなってきている。このような動向の中で、どのような展示空間が存在するのであろうか。ゲマインシャフトからゲゼルシャフト(テンニース)に向かうとすれば、次のようになるだろう。自宅(個人)。地方公民館(個人/地方自治体)。貸画廊(個人/管理者)。企画画廊(管理者)。アートフェア(画廊/企画者)。国際美術展覧会(個人/管理者/企画者)。美術館(管理者/企画者)。この詳細を追う。

2.自宅
自宅での展示はそれが作家自身であろうと家族、友人宅であろうと稀である。その理由として日本の家屋の面積が狭いことと、公共性が欠落することが挙げられるだろう。しかしこの場所で展示することは、自己が描きたいものを自由に展示できる利点がある。

3.公民館
 地方公民館で展示する場合は、その地方自治体の検閲が入ることが必須である。面積が広くてもピクチャーレールがないなど美術展示に向かない点等が欠点であろう。しかし地元の作家が集ってグループ展を開催する場合が多々あることは否定できない。

4.貸画廊
 貸画廊は借りた者が自由に展示できる筈ではあるのだが、イメージに合わない、過激すぎる、売れそうにない等、画廊主に拒否する権限が存在する。どのような作品でも拒まない画廊もある。貸画廊制度は世界に類を見ない日本独特の悪しき風潮だとする研究もあれば、自己が稼いだ資金を払って自己の好きなように展示ができるのだから何者にも囚われず展覧会を行なうことができるという意見もある。

5-1.企画画廊
 企画画廊で行なわれる展示は、主に内側の画廊主若しくはキュレーターという外側からの持込の場合が多い。ここでも画廊主の力は強い。徹底して自己の経済力を高めるために作品を売ることに躍起になる場合もあれば、作家のために作品を売る、作品を全く売らない展覧会というスタンスに終始する場面もあるだろう。1980年代のバブル期、企画画廊は莫大に膨れ上がり投資の場となった。現代美術の市場が存在しない日本の美術界でこの現象は非難の的と化したが、その前後を見てみよう。1979年10月の雑誌『太陽』で、「画家と画商」が特集されている。扉頁を引用する。「若き才能はおおむね貧乏と同義語である。画家もまたその例外ではない。画商は、未完成の画家の隠れた才能を見出し、物心両面からの援助の手をさし伸べ、その全き開花に力を貸す。そして実を結んだ「商品としての美」の売買に従事する。親しむ画家の数の多寡、そのつき合いの深浅が、すなわちその画商の財産である。画家と画商の結びつきは強い」(13頁)。ここには金銭欲がどれだけ含まれるか知る由もないが、人と人との「つき合い」「結びつき」が強調されている。翻って2007年4月の美術雑誌『美術手帖』に目を移すと「アートコレクターになる!」という特集が組まれている。「自宅に人を招いてお披露目→仕事場で公開する→ビューイングルームを設ける→展覧会に貸し出す」(33頁)、「コレクションの方針を定める→作品の売却→コレクション展の開催→美術館に寄贈する」という流れが記されている。そして注目すべき点は、画廊よりもアートフェアでの購入を推奨していることだ。この発想には画廊が抜け落ちているどころか人との結び付きによる作品の「開花」は失われ、まるで買い手が画商やキュレーターになるような錯覚を与える。


5-2.コレクター
2008年にオープンした軽井沢現代美術館のような例もある。代表の谷川憲正は美術雑誌の編集部出身であり、海画廊を1985年に創設し、自らのコレクションを元に美術館を立ち上げた。美術館の学芸員とは異なる視線によるコレクションは新鮮である。コレクターといえば美楽舎のコレクション展(8月2日~8日/ギャラリー日比谷)が19回目を数えた。共に、若いコレクターを育てようとしている。

6.アートフェア
 ここでは「東京アートフェア2009」(4月3~5日/東京国際ホール展示場+東京ビルTOKIAガレリア/以下、AFT。)、「101TOKYO Contemporary Art Fair2009」(4月2~5日/アキバ・スクエア/以下、101。)、「東京コンテンポラリーアートフェア」(11月21~23日/東美アートフォーラム/以下、TCAF。)を取上げる。AFTは今年で四年目、151団体が参加、入場料1500円、エグゼクティブ・ディレクターの辛美沙は「アートフェアというのは美術品の見本市です。画廊、美術店が作品を持ち寄り、入場者に販売するイベントのこと。美術の展覧会は黙って作品を見るだけですが、アートフェアでは自由に作品を買うことができます。」と定義する(http://www.president.co.jp/pre/special/interview/4705/)。101は二年目、33団体が参加、入場料1000円、主催ではなく雑誌「ART IT」編集長小崎哲哉を中心とした審査委員が運営している(http://www.101tokyo.com/jp/index.html)。主旨は記されていないが、「日本だけでなく世界中の質の高いコンテンポラリー作品を紹介する」(http://www.101tokyo.com/jp/news/2008/11/101-tokyo2009.html)ことが目的のようだ。TCAFは三回目、67団体が参加、入場料600円、呼び掛け人代表、彩鳳堂画廊の本庄俊男は企画の趣旨を「日本美術界が世界レベルに追いつく契機となるべく、若手のアーティストに焦点を当てた」と説明する(http://jpn.tcaf.jp/)。AFTは多種多様な展開を見せた。101は現代美術の動向を全面に出した。TCAFは若手の強い作品を並べた。しかしながらどのアートフェアにも共通することは作品や画廊が時代を牽引するのではなく、「アートフェア」がそれを生み出している感があることだ。即ち、似たような作品が並ぶのである。それは暗中模索の状態が一つの方向性に統一されたことを示すのであろうか。美術作品とは時代を予感し、多層的な展開が為されるべきだ。それを生み出すことが出来ないのは、作家の問題と限定することはできないであろう。


7-1.国際美術展
 国際美術展は、主に通常美術が展示されない会場で行われる。また、主催者によってもその規模が左右される。2008年開催された横浜トリエンナーレなどは、世界25カ国・地域より72名の作家を選定し、多様な作品(映像、インスタレーション、写真、絵画、彫刻等) が展示された。ここには横浜市の莫大な税金が投入されつつも、当然のことながら横浜在中の作家の作品は展示されない。国際展にローカルな話題は必要ないのだ。ところが今日ではこの国際美術展形式の展覧会が主流を占めるようになってくる。画廊の沈没とアートフェアの台頭は、「商品」としての作品を示す。「商品」ではない作品を発表する苦肉の策である。そしてこれらはローカルと結びつくことを望む。四度目を迎えた大地の芸術祭―越後妻有トリエンナーレ(7月26日~9月13日)は秋版(10月3日~11月23日)、水と土の芸術祭(7月18日~12月27日)と拡張し、更なる展開を遂げた。アートディレクターの北川フラムをキュレーターとし、世界的に名が通るベテラン作家を多く集めたこのトリエンナーレの特徴は、十日町、川西、津南、中里、松代、松之山といったエリアに作家が滞在し、その町の住民と一体となって展示を試みようとしている点が挙げられる。そのため作家が新潟出身でなくとも、海外であってもローカル性が保たれるのである。私は十日町エリアの鉢の集落に展示とアトリエを置いたヒグマ春夫の元を訪れ、夜は集落の人々による歓迎を受けた。ヒグマも私も集落の人々と美術以外の内容を語り合い、交流を深めたのであった。この展覧会に参加した38の国と地域のアーティストによる約350の作品全てがこのような状況であるとは確信できないが、少なくともこのような特徴を持つことは指摘できるであろう。今年二回目を迎えた中之条ビエンナーレ(8月22日~9月23日)は「町全体を美術館にする」ことを目標に定めている。それに相応しく、総勢112名のアーティストが制作した200以上の作品が並ぶ何処の会場を周っても町の人々が受付をし、来客者と会話し、美術展に協力的であった。総合ディレクターの山重徹夫はアートディレクターでありデザイナーでもある。中之条町が全面的に展覧会をバックアップし、アーティストが20代からの若手中心となっていることも注目できる。都心である所沢ビエンナーレ(8月28日~9月23日)の場合、「引込線」というタイトルが示している通り会場は西武鉄道旧所沢車両工場であり、巨大な倉庫の印象が強い。このビエンナーレの特徴は「作家自身による手作りの自主企画展」にある。そして美術家、批評家、美術館員、学者、思想家、他の美術を構成するすべての成員に、同じ地平で参加して貰うことを目標に掲げている。実行委員長は彫刻家の中山正樹であり、37アーティストによる78作品が並んだ。

7-2.国際美術展様式の展覧会
トリエンナーレ、ビエンナーレという副題を付けなくとも地元に密着した、何年かに一度の美術展覧会を行なおうとしている団体も数多く存在する。違法飲食店と麻薬、売春のイメージを払拭し町の再生化を図る横浜黄金町は2008年に黄金町バザールをスタートさせ、毎年一回の展覧会を目指している。2009年にはNPO法人黄金町マネージメントセンターを発足させたバザール(9月1日~27日)は既に1999年から市民、取手市、東京藝術大学が共同で行なっている取手アートプロジェクトに比べて華々しさに欠けるが、町の現在の状況を晒すことによって、その再生の過程を示す重要な展覧会となっている。2004年から始まり、川崎商工会議所が主催するART KAWASAKIは旧日本鋼管株式会社(現JFE)が創業当時の明治45(1912)年、ドイツから製造設備を輸入するのと同時にアウグスト・アウマンを含む職工長3人と技術士1人を招いた際の記念建築物「アウマンの家」において毎年展示を行っている。川崎市は2004年から「音楽のまち・かわさき」を推進している。IBMから市が無償で借り受け、市文化財団が運営したかわさきIBM市民文化ギャラリーが9月30日をもって閉館し、28年の歴史に幕を閉じた。このような状況の中でどのような美術展が可能か、ART KAWASAKIの実行委員は探っている。軽井沢アートコントラーダはビエンナーレを目指している。軽井沢町町長佐藤雅義を名誉会長とし「アートに出会う。軽井沢。」を主題にパストラルアート、クラフトアートも含めた総合的な展示を2007年に展開し、2009年はベテランの池田龍雄と増田洋美の二人展(10月8日~12日/ギャラリー蔵)を開催した。軽井沢という土地柄をどのように活用するのかによって、展覧会の方向は定まっていくのだろう。京都で10月、美術家だけの力で行なった展覧会が存在した。「観○光(かんひかり)」EXPO2009である。奥田圭太を事務局長とする実行委員会は協賛と協力を集め、自力で京都清水寺・経堂と元離宮二条城二之丸御殿台所での展示をこぎつけ、実現した。薄暗く自然光が差し込む部屋に裏表を描いた6枚組の《kinesis No.316》を展示した間島秀徳の空間性は見事だった。30,000人以上を動員したこの展覧会は「多くの人に見て貰いたいのでディズニーランドでも構わない」という主催者の思惑としては成功したのだろうが、この動機の幅の広さが今後、どのように影響していくのだろうか。

7-3.国際展様式の展覧会の問題点
いずれの国際美術展も、問題を三つ抱える。一つは展示方法だ。ホワイトキューブではない空間に平面をかけることは至難の業となる。立体作品であるならばインスタレーションという空間展示の技法が70年代からあるが、単に空間を展示することでは異なる場所で通用しなくなることが判明してきた。近年聞くサイトスペシフィックとはその空間に限定して作品を考察することであるが、この概念を駆使する作家は世界中見ても稀であることを特記しなければならない。越後妻有トリエンナーレではアンティエ・グルメスが《内なる旅》と題して森全体を使って展示を繰り広げた。参道の入口から道中、そして頂上へと物語性が籠められ、森全体を異空間としたのだった。中之条ビエンナーレでは清岡正彦が廃校で三室を展示した。その一室の《風景の呼吸(三部作)room2:苔のむす場所》は廃墟を示しており、廃校よりも古い雰囲気を醸し出す展示は見る者の時間感覚を震わせた。軽井沢アートコントラーダの増田の《PLAY THE GLASS adirato(怒り)》は変形したガラスに部屋が映りこみ、西日に照らされるとガラスは発色する。内と外が一体化する奇跡をここで見せてくれた。二つ目は地域住民との関わり方である。中央から地方へ来たという啓蒙的イメージをつくらず、かといって地方だけで盛り上がっている印象を与えないことも重要な課題だ。国際美術展が企画画廊の代わりになってはならない。国際美術展独自の模索がこれから必要となってくる。三つ目は誰が主導を取るかである。地域、作家、マネージャーが一体と化すことは夢に近い。このバランスをどのように維持し、誰に向けて、何のために展示を行うのかといった目的意識が強く働かなければ展覧会は一発で崩壊する。

8.団体展
団体展も作家主導型である。ここからは美術館における展示である。2007年に100年を迎えた日展同様、各団体も安定している。書物の販売が困難とされる時代に「ARTBOX MOOK SERIES:ARTBOX vol.1 大特集:美術公募展」(2008年)を筆頭に団体展を取上げる記事があることはニーズの高さを示す。しかし客観的記述が足りない。それこそが団体展の現状を物語っている。

9.アンデパンダン展
 「アンデパンダン」展は日本美術会の専売特許ではなくなった。芸大アンデパンダン展(2007年12月7日~9日)、和光大学も「アンデポンタン」と題して2007年からアンデパンダン展を開催している。川崎市文化財団が運営する川崎アンデパンダン展は17回を数え、美術家の深瀬鋭一郎は「いまアンデパンダン展が必要だから開催されるべきである」というスローガンを掲げて4月21日から5月17日までgallery COEXIST / art space COEXISTにおいて東京アンデパンダン展を開催した。アンデパンダンという看板を挙げなくともアンデパンダン形式の展覧会は存在する。横浜ノー・ウォーは7回を数え、アンデパンダンであっても独自の世界観を打ち出している。この状況の中、第62回日本アンデパンダン東京展(新国立美術館/3月18日~30日)に足を運んだ。自主規制という名の国家管理、不況という名目の選民思想、国際社会の標榜という題目のアメリカ崇拝主義といった、現代日本が抱える閉塞感に満ち溢れた作品が立ち並ぶ。過去の体験を振り返り憤ることもなく、現状を受け入れることしかできない窒息した世間の雰囲気を反映している。その中で、現代と言う鉄壁を掻い潜り未来に矛先を向けている作家が何人かいた。十滝歌喜がそのひとりだ。具体的に画面のどこにそれが指し示されているかと言う議論ではない。画面全体から発せられる力がここにはあるのだ。それでも十滝のような例が数少ないのは国や世間、個人ではなく、日本美術会が抱える一つの特徴であると解釈することができる。何故ならアンデパンダンであるにも関わらず、類似した主題が数多く目立つのである。つまり、皆が同じ方向を向いている感がある。これは短所ではなく、長所としてとらえるべきである。その方角に希望があればそれは主義主張と成り、一貫することになる。このような感触を保ったまま、横浜アンデパンダン(横浜市民ギャラリー+Bank ART Studio NYK/4月21日~26日)に行った。横浜開港150周年記念であり作家の稲木秀臣を実行委員に据え500人以上の作家が参加したこの展覧会は、これ程の多彩な作品が現在にあるのかと唸らせた。個々が自立し主張し、作家の顔が画面から浮彫になる。現代とは一元的ではなく様々な展開に満ち溢れていることを教えてくれた。横浜アンデパンダンは一度だけの祭的要素が強く、横浜市と横浜の画廊の強力な後押しがあった。「横浜市の素晴らしさ」という主義主張を、ベテランの稲木が上手く捌いたとも言える。その為、この展覧会が毎年続いていくとどうなるかは想像できない。1963年に終焉した読売アンデパンダンを引くまでもなく、アンデパンダン展が持つ「自由さ」をどのように解釈し表出し持続していくのかは、美術という定義が成されてから150年ほどしか経っていないこの国にとって、まだこれからの課題なのである。

10.コンペティション
各コンペも団体展同様、揺るぐことはない。老舗のシェル美術賞は勿論、上野の森美術館大賞展、インターネットで検索すれば地方の細かいものまで枚挙に遑がない。特に力を持つのが東京ワンダーウォールである。4月に見た東京都現代美術館新収蔵展にも、前述した東京アートフェアにも、驚くことに第十二回岡本太郎現代芸術賞にも東京ワンダーウォール入選者で犇めき合っていた。独自の見解を示すことによりその存在価値を高めていた筈の岡本太郎芸術賞がこのような傾向になったことについてここでは述べない。東京ワンダーウォールが一つの価値基準となることに私は異議を唱えない。しかしコンペに入賞するためにその趣向に合わせて作品を制作することは、戦争画を描くことに等しいことだけを記しておく。

11.美術館
美術館が、それまで物故作家に限定していた個展から若手の展示に移行することが珍しくなくなった。平塚市美術館で個展を行なった山本直彰は57歳(7月11日~9月6日)、東京オペラシティアートギャラリーの鴻池朋子は49歳(7月18日~9月27日)、練馬区立美術館の菅原健彦は45歳(11月15日~12月27日)、横浜美術館の束芋は34歳(12月11日~2010年3月3日)、金氏徹平は31歳(3月20日~5月27日)である。それまで最大の目標であった美術館展示が夢でなくなった反面、その先に何があるのか分からない時代になったといっても過言ではないだろう。このような動向の中で、49歳の間島秀徳の個展「Kinesis / 水の森―小杉放菴とともに―」(7月25日~9月13日)が、明治期に活躍した小杉放菴の作品と同時に展示され対比されるという点で目を引いた。更に9月6日、日本アンデパンダン展でも馴染みが深い万城目純、相良ゆみ、間島秀徳自身によるパフォーマンス「夜明け」が開催された。数多くの巨大な間島作品が並ぶ展示場を間島が歩む。それを放菴の作品の鳥を模した万城目が、現代の若手の中で最も研ぎ澄まされた舞踏者である相良の元に導く。三者は渾然となり、それぞれが個別に間島の作品と対話したかと思うと離れ、集結して終る。このようなパフォーマンスを唐突に行なえたのは学芸員の力量であろう。間島にとっても集大成としての個展ではなく、作家活動の道程にあることを確認したのであった。

終わりに
現代この国において作家が作品を発表する場所を考察すると、ほぼ絶望的な内容となった。それを逆手に取り、作家が今こそ誰にも拘束されることなく自由に自身で作品発表を行なえると解釈して、様々な網の目を掻い潜って自己に偽りのない作品が制作できることを信じている。