アトリエ訪問-「自らを野人と呼ぶ星島澤子さん」 


遠矢浩子

菱千代子・山崎美恵子・遠矢浩子の女性3人で浜田山の閑静な住宅街にあるアトリエを訪問し、お話を聞きました。星島さんは85歳の女性画家ここにありと思われる方でした。

―絵を志した日々―
1925年岡山の農家に生まれました。絵が好きで、野原をはしくりまわる(走り回る)野人でした。女学校の先生に画家を目指すなら女子美ではなく中村不折が開いた太平洋美術学校に行きなさいと勧められ、最後の卒業生です。先輩で有名な人は中村彝・松本竣介・高村智恵子等です。
16歳の時女学校を中退し、上京・入学。男ばかりの美術学校では、描いたものをこうしたほうがいいと教えてくれるのではなく駄目!と消されてしまうような指導でした。その中で尾崎房さんが一緒でした。親に日展(当時は文展といった)に入選しないと画家とは認められないと言われ、卒業寸前の18歳の時初入選しました。19歳で卒業し岡山の田舎に帰りました。戦時中で実家が農家だったので農業要員ということで工場の動員には行きませんでした。岡山市も水島工業地帯や飛行場があったので広島がやられる前に焼け野原になりました。友人の家と恩師の家を父と尋ねた時、黒こげになった死体をよけながら歩きました。怖いとは思わなかった。人間の感覚って戦争になるとおかしくなる。戦争は2度といやですね。


―この時代に上京するにはご両親の反対があったのでは-
納屋にこもってハンガーストライキをし、美術学校に行かせてもらえなかったら死んでしまうと頑張りました。親があきらめて4年間だけという約束で許してくれました。19歳で岡山に帰り、次の年20歳で終戦を迎えました。


―再度東京に出てきたのは―
日展に2回目も入選できたので、2回入選したらいいだろうと言われ、それから絵を描いてもなにも言われなくなりました。戦時中は絵の具も配給だったので日展を目指す人が多かった。岡山では辻井祥二さん、伊川巌さんたちと仲間でよく飲みました。「村を出た人はろくな人がいない。村から出てはいけない」と言う父が亡くなってから27歳ごろ上京。尾崎房さんを通して永井潔さん達と知り合い、リアリズム研究会の人たちとも付き合うようになりました。一人になった母と東京で一緒に暮らすことになり母がこのアトリエを建ててくれました。アトリエ開きの時、まつやまふみおさん、金野新一さん、小出峯雄さんなど20人ぐらい見えて、にごり酒を飲みながら盛り上がったものです。母も喜びました。


―アンデパンダン展にはいつから出品されていますか?-
アンデパンダン展には第九回(1952年)が初出品で、田舎の「母の立像」を出品しました。リアリズムの絵ということで壊れたバケツなどを一生懸命描いていました。


―初めのころは人物画が多かったのですね―
娘やアトリエに来る人をよく描きました。今仕事が忙しくモデルになってくれる人がいないので風景を描いています。
―これはいつごろの絵ですか―
おととし田舎を書いておこうかなと思った。置き忘れた風景です。太平洋美術学校出身だから明けても暮れてもデッサンで、レンブラント光線などと言って描いていたので、明暗でしかものが見えない。複雑な色が判らない。


―今年の線路の絵「辿る」。会場で、林立する大作の中で星島さんの絵は静かにありました。こういう作品が今のアンデパンダン展には少ない。目立つ作品は多いが―
年が年だから塗るだけで疲れる。これはP50。皆さん色がきれいで自分はこういうものしか描けない。線路というよりいつまで行ってもたどり着けない、いくら描いても思うような線が引けない。いらないものを取っ払ってと思うと。必要なものも取っ払っているのではと思ったりする。


―これはどの辺の風景ですか―
三鷹です。太宰治が愛したところです。駅の近くに大きな陸橋があり線路が見えます。友人が太宰のところに訪ねてくると必ず案内したと言う場所です。なんとなくずっと見ていたいという絵がかけたらいいな。


―若い人が結婚して子育てが始まると絵を描かなくなりますが―
私は途切れなしに絵を描いた。それしか能がない。離婚して一人で生活しなくてはいけない。絵を描くしかなかった。カットなりなんなり力量不足でも引き受けて描いて行った。小さいカットでも描くことから離れなかった。年中スケッチをし、描いてないとうまくいかない。どこに行くのもスケッチブックと一緒だった。バブルの時は絵を買ってくれる人がいて助かりました。
小品を数点見せてくださった。


 ―生きているのがやっとの今年の猛暑の中描いたのですか―
小さい絵は結構描いている。絵かきだから絵は描かなくては。描かなかったらいやじゃないですか。
詰め込んだ技術ではなく常に挑戦したい。でも、やっているといつも使っている色に戻って行ってしまう。違う色を使って新境地を開きたい。慣れるのが怖いとどこかで思う。
これはマンゴーを買ってきて赤色を使って描きたかった絵。この椅子は拾ってきたのよ。この椅子で何枚か絵を描いた。


 ―好きな画家の話が続く―
タマヨの色が好きです。日本美術会のメキシコ・キューバ旅行に参加しました。タマヨに会えると聞いて学生たちも一緒に行きました。広いタマヨの別邸でタマヨに会いました。大理石の床でしたよ。この画集を持って行ってサインをもらった。嬉しくてね。写真を一緒にとってもらった。この画集いいでしょ。私の宝物だよ~。 艶消しで何とも言えない。これを飛行機で抱えて持ち帰りました。
-民美で教えていたことがありますかー
 子供をつれて行って椅子に寝かせて教えましたよ。若い人が一杯で、イーゼルもいっぱい並んでいて「女の講師が来る」というのでどんな人かと思ったら男だか女だかわからない人が来たと言われた。あまりに多くて生徒の顔は覚えていません。


―健康談議が始まった―
8年前癌の手術をし、生きているのが不思議。術後アトリエに来ていた人とイギリスに行ってスケッチをして歩いたら元気になっちゃって。おまけに生きています。膝が痛い時杖をついていたが、杖があるから頼ると思い杖を桜の樹のところに置いてきた。そしたら歩けるようになりました。


―アトリエに絵を描きに来ている人のこと―
 皆さみしいのよね。絵を描いて充実感を持って帰っていく。私から元気をもらうと言ってくれる。ここに来る人は環境のこと・公園を作る運動をしている人もいます。
棚には春に咲いたタンポポが綿毛をつけたままそっと隅の花瓶にさされ、枯れた花のモチーフが沢山置いてありました。壁には半田敬史郎氏の「光と弟子たち」や小野忠重氏の「空港への道」、オランダのナショナルギャラリーで買ったフランチェスカの絵ハガキ、お子さんが小3の時に描いた絵などが掛っていました。
絵を描くには、かなりの体力や集中力が必要です。癌闘病を経験されたのが嘘のようにお顔のつやも良いし、話の回転も速く、好奇心と、何事にも楽天的に受け止め、笑いあえる人間関係が若さの秘訣とおっしゃる。ユーモラスな話題展開と、沢山の作品を見せていただき、アトリエの天井まで延びた植物にまで話が及び、つい長居をしてしまった。