小野忠重 人と作品-創作版画の青春を生きた気骨のヒューマニスト


阿部 正義

廣島の川
廣島の川

はじめに 小野さんと僕の関わりは

1960年末に王子・紙の博物館の年賀状講習会に参加して、「版の会」という版画の勉強会があるからきませんか?と誘われたのが始まりです。小野さんにとっても、ヨーロッパ旅行へ行く時から東京芸大の講師になるまでの3年間で、「泥絵」のようだった版画が、洗練されて色の深みが増し、陰影を彫る線がするどく走るように変化する面白い時だったと思います。僕はデッサン不足を言われ、子供の頃教わっている高柳博也アトリエに通ううち、若い人びとが集まり4B会(絵画サークル)を再開することになり「版の会」はやめました。しかし不思議なもので、やめてからの方が小野さんの本を買い集め、読み、新聞を切り抜きカットまで集めました。
 それだけの関係ではなく、僕の母が小野さんの2番目の奥さんの貞子さんと、日本女子大の同級生でした。貞子さんは、戦前、出版社「双林社」を小野さんと協同で設立した編集者です。僕が「版の会」でお宅に通うころ、長火鉢にキセルで見識の高い姉御という風でした。僕の母は、このころ勝目テルさんの平和婦人新聞の編集から新婦人創立を受けて新聞の初代編集長となり、小野さんに記事・カットをたのむこともある関係です。


三大の死
三代の死

若い頃 良い仲間に恵まれた

小野さんは、向島生まれだから江戸っ子です。水彩画に始まり、オットー・デイックス、ゲオルグ・グロス、ケーテ・コルヴィツ、オットー・ナーゲル等、ドイツリアリズム作群の作品紹介写真版に胸うたれ、加えてムンクも含めて版画に魅了された初期では、白黒版画の連作「三代の死」などすばらしい作品と、重厚に版を重ねた「工場区の人びと」などの作品があります。満州・上海事変へと戦争へつき進む世を背景に、民衆の喜び・悲しみに無関心でいられなかったヒュ-マニスト、小野さんが画面ににじんでいます。

 
 1929年(昭和4)には、第2回プロレタリア美術展覧会に、版画と油絵を出品する。第3回展にも出品。僕達には想像も出来ない時代で、美術館のまわりをぐるり警官がとりまいている。会場内では特高係が「撤回、撤回」と片端から壁の絵をはずさせている。小野さん自身も第5回展に出品しようとした連作版画「三代の死」が撤回にあいます。署まできてくれと3,4日も泊められたこともあるようです。


 1932年(昭和7)版画を志す人を集めて、新版画集団を作り、その活動の中心となっていく。この仲間は武藤六郎、藤牧義夫、柴秀夫、蓬田兵エ門など良い仲間が集まりました。とりわけ藤牧義夫の作品はいまでも輝いていて、シナベニア板の使用に三角刀、色を染めた紙の使用など、協同開発と言っても良いくらい刺激し合って勉強したのだと思われます。黒田源次(後の国立奈良博物館長)の本を読んで美術史に関心をもち指導も受け、新版画集団の会報の編集を美術出版社の木下正男に知られ、『みずゑ』誌の校正の手伝いから、1935年(昭和10)に『みずゑ』にヨーロッパ版画について数回書く。版画に対する世間の評価は、戦前はとくに低かったです。


双林社

創作と研究の2足の草鞋

-研究―
 戦争中の1939年、小野さんは30歳で働きながら妻子をかかえて(こども4人)法政大学文学部の夜間で、苦学をします。暗い戦争を忘れるような勉強ぶりだったようです。


 戦争中にもかかわらずこの後、「双林社」という出版社を作って、版画の本なども自らも書き、編集、13冊発行しています。それも時代を考えると精一杯の抵抗と思えます。 「双林社」は小梅の自宅を発行元として、昭和18年7月には『ドガ』ヴォラアル著 鈴木健夫・小野忠重訳を売価3円80銭で発行しています。


 『支那版画叢考』小野忠重著、昭和19年8月発行、売価6円60銭。「中国の木版画は、かって唐から明にかけてきわめて立派な歴史をもっていた」が、現代中国版画は魯迅から始まることを、小野さんはこの本の最後で書いています。


 小野さんの研究は、本を36冊以上、他に雑誌、新聞に書いたものを含めると、たいへんな量です。小野さんの文章は江戸っ子らしい歯切れの良い名調子で、感激が伝わってきます。年表形式のノートを持ち歩き、出来上がった原稿を日の記憶を確かめる旅までして書き加えたりしています。とりわけ、庶民の絵の歴史、働く人々の絵の歴史を明らかにし、通史の中に位置づけていることは大きな功績と思います。


 『泥絵とガラス絵』(アソカ書房)のあとがきで「美術館、美術書でことたりていた方々にも日本民衆絵画を読者諸兄のごく身近に『泥絵』と『ガラス絵』とで、いくらかでもわかってもらえればうれしい」と書いていて、小野さんは、それまで系統的にはほとんど取り上げられることのなかった庶民の絵の歴史、働く人々の絵の歴史を掘り起こし、民衆の中で培われた版画の価値を、伝えるという仕事をしました。それは外国からの日本の版画の評価の高まりの中で、失いかけた日本の版画を掘り起こす仕事であり、魯迅などの社会変革運動とも結びついた近代の版画運動を記録し伝えるという役割も果たしました。版画が絵をつうじて庶民にものを伝える媒介でもあった事実とも深くかかわっていることです。しかし、戦前の絵を書いてきた人々は地主とか多分余裕のある人々で、本格的に誰でも描けるようになるのは、戦後、職美協などの民主的な美術運動が市民レベルでおこったことにつながっている。疎開していた内田巌さんが「お前もアンデパンダン展の呼びかけ人だぞ」と言って、先に上京しました。小野さんにとってアンデパンダン展への出品は、庶民の絵「版画」の作家、研究者としての良心をかけたもので、節を曲げなかった証でもあるといえると思います。

―創作―

制作は、僕の行っていたころアトリエは無く、書斎は座る所、通り道以外は本が積み上げられていっぱいでした。研究・調査などの外出時、紙袋に手作りのスケッチブックを入れて持ち、バス待ち、電車待ちの5分でも10分でもスケッチをしていました。その日一日描いたものを、帰って一杯やりながら、フィキサチーフがわりに 絵の具でぬるのが日課でした。


 弟子の私たちがバス待ちで、雑談している時でも先生は描いていました。古い人ですから現場でのスケッチをまともに見せてもらったことがなく、亡くなられてから見せてもらい、ごく短い時間に対象を捉えるデッサン力はすばらしいの一語です。小品・カットとしているものは、別に描きなおしています。


 彫り、刷りは座敷に厚布を敷いて、そのうえでやっていました。刷る絵の具は、学童用のサクラ絵の具です。自分で描いて、彫り・刷る創作版画を日本で始めた山本鼎はお手本を写すのではなく、写生をする自由画を始めた人ですが、学童絵の具の開発も指導していて、日本の学童絵の具は良質だから・・・と小野さんには教えられました。


版画を教える
 東京芸大に版画教室は小野さんが入る1963年に開設しました。浮世絵の国に、木版教室が無く、東京美術学校から75年後、芸大としては14年後に教室が開かれたと小野さんも笑っておられました。1977年まで東京芸大に在職した14年の間に、100点に及ぶ中沢澄男コレクションなど日本の版画史を知る上で貴重な創作版画の資料を芸大が所蔵することになったのは小野さんの功績にほかなりません。


作家としても、芸大の退官記念展に62点の版画と素描28点が展示されました。芸大も小野さんの素描を高く評価していたから28点も展示されたのではないかと思います。僕も情感があって素描のほうにより魅力を感じている一人です。東京芸大の他、愛知県立芸大、広島大学、宇都宮大学へも教えに行っています。1960年からは社会人中心の「版の会」を結成して、一貫して後進を育てる努力もしています。「版の会」は現在も続いています。


小野さんから教わったこと

◎ デッサンまたデッサン、街で生活の場で、…白黒の分量を考える。
◎ 人の真似はいけない。
「陰刻は魅力的だけれど、自分の真似はするな・・・」。技法は、自分なりの創作編み出されるもの、僕も、今は水彩画で、陰刻で使う濃い色の紙でなく薄い色の紙を使っていますが小野さんの影響を受けています。
◎  和紙のすばらしさを
小野さんはその著書の中で「生漉の和紙はまったく独特の美しさをもっている。繊維の配列がたてよこ差がなく、その強靭性は、だれもがみとめるところで、素材の淡色をただよわせて、引っぱってもきれないじょうぶな感じを与えてくれる。墨も絵の具もじっくりしみこむ効果を愛するのは私ひとりではありますまい」と書き、僕にもその美しさを教えてくれました。90%以上和紙を僕は使っています。
◎  作品を大切に、高いものではなくてよいから手作りで。
◎  広い人々に絵を見てもらい、反響から学べ
 民衆から育った浮世絵を研究していた小野さんから「富山の薬売りがお土産においていった浮世絵はその評価が作者に返っていて、胸にこたえた評価には作家も応えて浮世絵は育っていった」とよく聞かされました。だから、年賀状を出し続け、地域の9条の会のビラでも絵を使っています。

 

  
加藤周一氏は『日本文学序説』のはじめに「日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である」と書いている。最近、音楽や演劇にくらべ美術はパッとしない印象だが、現在、美術を志す人は、庶民・働く人々である、この人々と結びついた美術が、どうあるべきなのか問いなおしつつ進むことが、作家、版画研究家としての小野さんから与えられた私達の宿題ではないか。あらためて小野さんの仕事を見渡したとき、私はその思いにとらわれた。

参考文献
『支那版画叢考』 小野忠重著
『日本の民画、泥絵とガラス絵』小野忠重著 アソカ書房 1954年10月刊 
『版画―近代日本の自画像―』小野忠重著 岩波新書 1961年3月刊
『文学』1976年4月 岩波書店刊 「魯迅と版画」小野忠重著
『小野忠重版画集』 形象社刊 1977年11月 「学恩の記」
『小野忠重木版画』 1993年8月 町田市立国際版画美術館
『小野忠重―生誕100年―昭和の自画像』2009年10月 同上