東欧逍遥:アウシュヴィッツ、ベルリン、プラハ

足立元

 東欧では、稀に驚くほど輝きに満ちた街並みや風景を見ることが出来る。当然のことながらこの地は、常に肌寒く、ほとんど陰鬱な曇り空に覆われている。にもかかわらず、稀に雲が晴れたとき、灰色のヴェールが視界から剥がれて、恩寵のように輝いた光景が現れるのだ。それでもやはり、この曇り空の下では、あらゆるものがどこか重い意味を持って見えるだろう。ここでは至るところに、耐えがたい敗北と服従の歴史の痕跡が存在しているせいかもしれない。ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカには、次のような言葉がある。「この世には戦場のほかの場所はないのかもしれない/戦場にはまだ記憶されているのも/もう忘れ去られているのもあるけれど」(沼野充義訳「現実が要求する」『終わりと始まり』未知谷、2002年)
 2010年10月に日本美術史の学会でポーランドのクラクフに行く機会があり、それから二週間ほど東欧を旅していた。東欧の中でも、いや世界中でも、ポーランドの国立オフィシエンチム博物館こそは、最も重い意味を持つ場所の一つであろう。ここは、第二次世界大戦下に、ドイツ軍がヨーロッパ各地からユダヤ人を送り込んだアウシュヴィッツ強制収容所として知られる。


 このミュージアムは、やや離れた二つの場所から成る。一つはアウシュヴィッツ1号という石造の収容所群の跡地である。もう一つはそこから徒歩で20分くらいの場所にある、ビルケナウ(あるいはアウシュヴィッツ2号)という木造の収容所群の跡地である。ビルケナウでは、レンガでできた門と見張りの塔をくぐり抜けると、鉄条網が張り巡らされ、平屋の黒い木造のバラックが数棟並んでいるのが見える。映画でよく登場するバラックの、実物だ。ほとんどはソ連軍によって壊されたが、数棟だけ当時の状態のまま保存されている。


 ここで、何十万人というユダヤ人が死んだ。観光客には、イスラエルの六芒星の国旗を掲げた白い服の集団がいくつもいた。ここは、ただのミュージアムではない。世界のユダヤ人にとって、歴史を学び忘れないための巡礼地であり、宗教的施設でもあるのだ。


 このミュージアムの最も特徴的な点は、ほとんどキャプションがないことである。ビルケナウでは、基本的にガイドについていかないと、建物やその内部に一体どんな意味があるのか、よく分からない。特別に訓練されたガイドたちは、ナチスの非道を声高に責めるのではなく、このベッドでどうやって囚人たちが寝ていたのかを細かく語り、当時の社会背景までを冷静に解説してくれる。広大な敷地を歩き回るだけでも半日以上かかるし、足が相当に疲れるのだが、その状況でずっとガイドの落ち着いた声を聞き続けていると、判断力が麻痺してくる。声は、モノや文字よりもずっと強力に、直接に精神に介入してくる。薄暗い風景だけではない。ここでは歩みとともに、生者の声をつうじて、死者の沈痛が、頭の中に何度も刻まれるのだ。


 もう一つの特徴は、アウシュヴィッツ1号のほうだけであるが、ここはパヴィリオン形式になっていることだ。国ごとに建物を使って、ユダヤ人排斥がどのように行われたかを示している。山積みになった眼鏡や金歯や義足、囚人の写真を大量に並べて展示したポーランド館の展示は有名であるが、どこかクリスチャン・ボルタンスキーを思わせる。一方で、フランス館、ベルギー館、イタリア館などはずいぶんと違って、スタイリッシュな展示をしていた。おそらく、それぞれの国が展示デザインや予算を担って行っているのだろう。特に、フランス館は暗闇の中に青白い光で文字を浮かび上がらせた現代美術風の空間であるし、イタリア館は未来派風の鮮やかではじけた色彩の空間である。同じ戦争表象を行う場所の中でも、様々な美学の政治化した闘争があるのを垣間見ることができた。

 

 アウシュヴィッツの後、ワルシャワに三日間ほど滞在して美術館を巡り、ポズナン・ビエンナーレを見て、ベルリンへ向かった。


  夕方ベルリン中央駅に着き、近くの安宿に荷物を預けてから、すぐに話題のヒトラー展を見に、国立ドイツ歴史博物館へ急いで行った。30分待ちの行列が、この展覧会への人々の期待を示している。第二次世界大戦以後、再びナチスが台頭することのないよう、ナチスに関連する資料をミュージアムで展示してはならないという決まりがあったからである。この展覧会は、あくまで実証的な研究の成果として、「ヒトラーとドイツ人」の関わりを当時の品々や写真や映像を通して紹介していた。ヒトラーの登場以前からドイツ人が待望していたというヒューラー(総統)のイメージから始まり、ヒトラーと国家社会主義の台頭、子供たちが 書いたヒトラーの誕生日のポストカードなど総統崇拝のグッズの数々、戦争を記録した写真と映像、いくつかのヒトラー暗殺計画の写真、強制収容所の囚人服を並べただけのユダヤ人虐殺についてのささやかな紹介、そして最後に、ヒトラーの死体を見る兵士たちの映像が上映してあった。


 だが、結論からいえば、期待ほど大きな感動を覚えたわけでもない。ヒトラーについて特別に新しい発見や知見を打ち出しているわけでもない。展示面積も中規模のものだし、その 企画にとって関連しうるモノのうち、ほんのごく一部を展示したにすぎない。たしかに展示デザインにもこだわっているし、映像を多用して視覚的なインパクト は十分にあるのだが、内容としては凡庸な展覧会といわざるをえないのだ。むしろ、戦争から65年が経ってようやくこの程度の展示が可能になったのかと、そ れほどまでにナチスへの嫌悪というイデオロギーがこの国に強く働いていたことを思い知った。

 

 ベルリンに三日間ほど滞在して現代美術の世界に浸った後、旅の最終目的地であるチェコのプラハへ向かった。あまり知られていないが、チェコ人が持っているデザインや造形への感覚や情熱 は、世界でも屈指のものにちがいない。中世、近代、現代の個性的な建物が共存するプラハの街並みの美しさは、東西ヨーロッパの地方都市の多くをはるかに凌駕している。


 といっても、名勝を求めてここに来たのではない。チェコ出身の小説家ミラン・クンデラが著した小説の舞台を、この目で見たいと願っていたのだ。クンデラは、1968年の「プラハの春」の後、この街がどのように変わってしまったかを次のように描いている。「これはどんな歴史家によって も書きとめられない事実だろうが、ロシア侵攻のあとの数年間は埋葬の時代だった。死亡がこれほどの頻度に達したことは、かつてなかったのである。(中略)死は直接迫害されていない者たちをも襲った。国を捉えた絶望が魂にひたひたと浸透し、人びとの体を捉え、彼らを打ちのめしたのだった」(西永良成訳『存在の耐えられない軽さ』河出書房新社、2008年)


 プラハの、銀座通りに相当するような洒落た街路の一画、分かりにくく奥まった古い建物の一フロアに、共産主義博物館がある。ここには、1968年からソ連の圧政を終わらせた1989年のビロード革命までの資料が展示されている。当時の配給制による貧しい生活水準を示す品々、盗聴器や尋問の道具、そして民衆の暴動を記録した写真や映像がある。中でも、「ビロード革命」の映像は感動的であった。クンデラは「プラハの春」の実態が市民のフィルムカメラによって記録されたことを特筆していたが、「ビロード革命」は市民のビデオカメラによっても記録されていたのである。その中には、デモ隊の中に私服の秘密警察が紛れ込み、市民を暴行している光景までも、ありありと写されていた。


 ここの国立現代美術館もまた、チェコにおける共産主義時代の一側面を教えてくれる。70年代から80年代にかけて、ソ連と同様に社会主義リアリズムが公式の芸術となってから、西側の美術やそれに影響を受けたと認められるチェコの新しい美術は、一般の人々の目に触れることはなかった。しかしながら、「非公式な美術シーン」が 存在し、権力者たちから隠れた地下サークルの中で、抽象表現主義、ミニマリズム、コンセプチュアルアート、オップアート、さらにはパフォーマンスのような 作品が制作され続けていたのである。インスタレーションと写真・ドキュメントから成る作品では、1970年にアパートの地下に設置・放置され、1993年 に土に埋められ、2000年に掘り出されたものもあった。文字通り長年「地下」に入れられたその作品のプロセスは、チェコの人びとのしなやかな不屈の精神 をも体現している。


 今日のプラハの街を歩いても、二十年前までありふれていた秘密警察の脅威は、もはやどこにも感じられない。ここもまた、忘れ去られた戦場のひとつで、今は普通の安全な観光地だ。しかし、この街で既に当たり前となっている自由は、かつてこの街で盗撮・盗聴され、脅迫され拷問されて死んでいった人びとが、未来のうちに獲得することを切望していたものである。だからこう考えてみた。自分は現在、地下に眠る彼らの理想の未来を旅してい るのだと。そうして見ると、陰鬱な曇り空は晴れなくても、微細で軽やかな祝福の輝きが、実はこの街の至るところに満ちているような気がしてきた。