版画家・小野忠重を想うことなど


小野近士 (小野忠重版画館 館長)

今、話題の建設中のスカイツリー、父が生まれた業平橋のすぐそばにある。そして、隅田川を隔てて反対側の浅草近くの慶養寺に父が眠る小野家の墓がある。そこから工事中のスカイツリーの鉄塔がよく見える。
 父・小野忠重は業平橋のすぐ側、墨田区小梅一丁目の角に構える酒店の一人息子として明治42(1910)年に生まれた。中学生の頃から、文学、絵画に興 味を、また演劇の世界にもあこがれた。一方、商売の勉強のためにと、小野忠重の父(つまり私の祖父だが)が早稲田実業にいかせ、いずれは跡継ぎにと祖父は 楽しみにしていた。

 その頃の日本は、昭和に入るとともに軍靴の音がますますやかましくなってきた。そのなか、小野忠重は住む下町で社会運動にも参加するが、しだいに版画の世界に自分を見つけていく。そして、版画を大衆にと、仲間と「新版画集団」を結成、各地で展覧会を開催する。また、創作版画誌「新版画」をグループで発行する。小野はそこに、下町に暮らす人々、町工場の労働者の姿を版の絵として発表した。連作版画「三代の死」が、版画大作
「将軍」が生まれる。
 やがて日本は太平洋戦争に突入。小野はもう酒屋の跡取りではない。版画制作を中断、小さな出版社「双林社」を作り、そこに活路を見つけ、いくつかの絵画関係の本を出した。そして、昭和20(1945)年敗戦を迎える。
 小野の戦後の出発が始まる。美術出版社の社長の好意で編集の仕事に携わる中で、戦後の版画制作を開始した。戦後の小野の版画の技法は、戦前のまるで油絵のような陽刻から、一版陰刻にかわる。その技法について小野はこう言っている。
 「陰刻の版を暗色の紙に白絵の具で刷った場合どうなるでしょう。当然、暗色の線で表現されます。もしこの版に数色を塗り分けて刷れば、効果はさらに違って見えます。つまり、あらかじめ和紙に墨汁を塗り、乾いたらその上から暗色の絵の具(赤または青)を塗り、紙ができます。一方、シナベニヤ板に描いた部分を彫って(陰刻)版ができます。この彫った版に多色の色(不透明水彩絵の具)を塗り、先ほどの暗色の和紙に刷り版が完成します。」
 この技法は小野が戦後独自に編み出したものだが、「戦後編集の仕事で須田国太郎さんと
知りあったとき、カンヴァスは白い物とばかり思っていた私に暗色地のスペインカンヴァ、スの話をしてくれたが、思えばその後に続く陰刻多色の私の技法のはじまりだった。」と述懐する。小野はこの技法で戦後の傑作版画を創出する。「人びと」「工場」「廣島の川」「広島の子」「ヴェネチア」「ウイーンの公園」「風」「老人の海」等。戦前の太い描線から戦後の細い線に、そしてさらに描線が無数となる。小野の戦後は、主に風景をテーマに独自の視線によっていきいきとした作品が生まれる。それは小野の心象風景であり、戦前からの
一貫したリアリズムの精神が流れている。一方、版画史の研究家として、おおくの著書を著し、版画普及に力を注いだ。
 60歳を過ぎた頃から、私は父・小野忠重の鞄持ちとして日本各地をともに旅をした。父は高所恐怖症気味で、東尋坊の岩上に行ったときはふるえて、そばにいた見物客に助けてもらったことを思い出す。また、父は旅において海が、港が、魚市場が好きで、それを取り入れての旅を私はよく計画した。父はそこでスケッチをし、気に入るとそれを版にした。やがてそこから作品が生まれる。
 平成2(1990)年、81歳で父が亡くなった。父の作品・その膨大な版画資料をどうするか。私たち夫婦は、美術関係の先生方の意見をいただき、古い家を改造して、平成6(1994)年、小さな「小野忠重版画館」をオープンさせた。そして年数回のサイクルで収蔵作品展、賀状展を催し、今に続いている。平成23(2011)年春は「没後20年・小野忠重展」第2弾を開く予定である。   

小野忠重版画館

所在地 〒166-0001 東京都杉並区阿佐谷北2-25-16
連絡先 TEL .03-3338-9282
開館時間 10:30-17:00
休館日 月.火.水曜日、展示替え期間
観覧料 400円/中学生以下無料
観覧料 400円/中学生以下無料
交通の案内 JR線 阿佐ヶ谷駅下車(徒歩8分)