美 術 の 始 源〜日本美術会主催《 2010 シンポジウムIN郡山 》での講演より〜

上 野 一 郎 

前置き
 私は上記の講演では多くの映像を用いて図像の魅力と説得力に頼り、また図の解説も交えて話したが、その活気をここで再現は出来ない。また諸事情により講演は準備した内容の途中までしか果たせなかったし、本誌では厳密な学術的配慮をした記載はそぐわないであろうし、与えられた誌面の制約から切り詰めて書いたり幾つもの話題を割愛するから、表題に対する記述内容は充分なものとはならないが、ともかく講演の要旨の前半部分を以下に掲載し、後半は本誌の次号で印刷される予定である。なお取り上げる事例が年代的に不定で、専門の考古学者から見れば感想や観念的な想定に過ぎないかもしれない。私は先史時代の専門研究者ではないが、これまで自分なりに積み重ねた一定の知見に基づいて、おおまかではあるが美学的な考察として講演の要点を記す。そこには、永井潔氏による諸指摘に大いに同調しそれを紹介する意図もある。


 題名を『始源の美術』としなかったのは、旧石器時代には科学と芸術と生活がまだ未分化な状態であり、“美術”という概念は近世になって出来上がったと考えられるからである。しかし太古から美術的・芸術的なものは存在し原始美術と呼ばれたりするのは、そこから美術が生まれてきた、今日美術として鑑賞できる我々の美術につながる造形があるからである(従って題名はどちらでも良かっただろう)。あらためて美術の源泉を見て初心に帰ったように原点を認識して、我々の創造におけるリアリティーの把握と表現への示唆と活力が少しでも増進されることが期待される。


美意識の発生
 美意識が生来の本能的なものなら、美意識を持つ動物が居る筈だが、動物に好き嫌いの感覚や意識はあっても美意識がある確たる証拠はない。孔雀の羽根は種の保存のための装置である。美しい夕日や花に見とれる犬や猫がいるだろうか?また遊戯本能が美や芸術の趣向の元だという説もあるが、動物がじゃれるのは単に無為ではなく狩猟の訓練が根底にある。しかし人間は動物だからその美意識には、活力、休息、生命性などの要素がなければ人間的ではない。


 ところで人は数百万年前から道具を用いて、狩猟・採集生活を通して人間となって行った。原始人は石器などの製作・使用の労働過程で、実用的な関心だけでなく“かたち”への関心も強めて行った。この事について永井潔氏は次のように言っている。「道具はまた、事物の外形についての人間の関心を一段と強く飛躍させたにちがいない。なぜならば、道具の製作は素材の外形を変えることにほかならないからである。削ったり磨いたりの苦心をつうじて、形というものがどんなに重要なものかを人間はさとったであろう。同じ物質でも形を変えるだけでまるで別物みたいに便利になるのだから、形は大切だと感じないわけにはいかない。ものを見るときに、たんにそのものを見るだけでなく、その形に注意をはらう習慣が、こういうところからおこるであろう。《かっこいい》とか《かっこわるい》とかの判断は、もとはといえば道具からはじまったのだろうと私は推測している。」

 

私も博物館で原始の石器を見ると、最近は美しいと思う様になり原始人の心情を味わったりする。左右対称な利器は切れ味が良く、そのかたちに見とれることは “良いかたち”が利用から一時的にも離れた“かたち”として独立することを意味する。実利が根底にあってもそれを超えた“かたち”の感覚が、美の感覚であ ろう(ここで言う“かたち”は、形態のみならず材質の配慮を含む)。日本刀が美術館で見られるのも、実利を(踏まえながらも)遊離した形体や刃紋などの美 ゆえであろう。美しい形の飛行機はその飛翔に根拠があり、「形態は機能に従う」というデザイン思想がある。このように現実に基づ いて美が発生する。美的感覚は先天的な本能ではなく、技術を踏まえた人間的なものである。シンメトリーの美は植物の葉など自然形態と自然法則が根底にある とする説もあるが、動物は木葉の形を美しいと感じるであろうか?木葉を美と感じるには、美的感覚がなければならない。

前置き 

 私は上記の講演では多くの映像を用いて図像の魅力と説得力に頼り、また図の解説も交えて話したが、その活気をここで再現は出来ない。また諸事情により講演は準備した内容の途中までしか果たせなかったし、本誌では厳密な学術的配慮をした記載はそぐわないであろうし、与えられた誌面の制約から切り詰めて書いたり幾つもの話題を割愛するから、表題に対する記述内容は充分なものとはならないが、ともかく講演の要旨の前半部分を以下に掲載し、後半は本誌の次号で印刷される予定である。なお取り上げる事例が年代的に不定で、専門の考古学者から見れば感想や観念的な想定に過ぎないかもしれない。私は先史時代の専門研究者ではないが、これまで自分なりに積み重ねた一定の知見に基づいて、おおまかではあるが美学的な考察として講演の要点を記す。そこには、永井潔氏による諸指摘に大いに同調しそれを紹介する意図もある。

 石器や一般に道具は抽象的 な形であり、それは抽象作用から来ており、我々が抽象形を使用したり愛でる起源がそこに見出されよう。刃物は石であっても金属であっても磁器であっても、 その道具の機能性は自然が加工され抽出製造された、抽象的な形をもっていることから生ずるのであって、抽象的形式だから役にたつ。また美術も抽象作用無し には成立しないことは、作家の皆さんには説明する必要はないだろう。

 

 

形と表現と想像力
 道具を作る時、どの様に使用するかを想像し完成形態が頭に描かれていたからこそ、石の塊の選別や加工が可能だった。美的な形は 製作から生まれ、想像力を発達させる。製作実践が想像の意識を促し想像が創造を生み、両者は相互依存的に高まっていく。この複雑化する過程が長期に亘って 今日に至っている。礫の加工とは、一方は石器となり他方は道具となる創造の不思議である。フランスの哲学者で原始の造形に造詣の深いルロワ=グーランは、 そこに「自然界の時間と空間を超越するような関心」があり、「物質的秩序を超越するような関心を誘発する契機が石器作りのなかに内包されていた」と言う。

  新たな形は、道具の利便を探求し自然を改革する未来志向の想像力から創作された。それは形の表現に係わる問題であり、この事について永井潔氏の指摘を次に短く引いておくが、一層分かり易い叙述は氏の『美と芸術の理論』の中にある。「道具の形には道具の使用 価値を実際に生む機能があるだけでなく、道具を表現する機能もあるわけだ。そしてこの表現する機能の方は、道具の現実的使用価値から離れても独立的に働き 続けるのである。」表現機能は抽象されて出てくる。例えば鎌という形(や語)が出来ると、使わなくなった鎌も鎌であり、絵に描いた鎌も鎌を表すように表現 の形は独立する。そこに注目すると、「まず生活の必要に基づいて形の方が先に抽象され、その結果抽象された形そのものへの価値意識が生まれる。」「美意識 は物を眺める時に形式を抽象する能力であるが、その自分の抽象能力があたかも眺められている形式の側に移ったように見なす感覚である。」すなわち事物は単 に形などを持つに過ぎないが、その形を抽出して美しいと思う自分の気持により、その形は美しい価値を持つとされるのである。


形の人間性と美の普遍化
  この抽象は労働に由来する実に人間的な操作であることを、また永井氏の言葉を引いて認識しておきたい。「人間が自分で造った形を自分のために使用するとこ ろに、形の中に人間が自分自身を味わう出発点がある。道具の生産と使用が形への価値意識を生むのだと思う。」「道具は目的でなく手段であるが、道具をつく る仕事は手段を目的に変える。目的のように見なされた手段が“形”であるといってよいだろう。手段はそのなかに人間の目的を結晶させているから、形を変え た人間性そのものであり、人間性の形なのだ。」人間性とは、人間的な社会生活に生じる。社会生活には伝達手段が必要である。形象がこの伝達の性質を持つこ とについて、永井氏は以下のように解説する。

 

 ナイフで野菜も肉も紐も切る、切る道具なら、「道具の自律的価値は、それが個別的実践の個別的目的 への奉仕から解放されているところにこそ生ずる。道具は対象の抽象化であることによって、目的を普遍化する。形式の美が、価値でありながら実利から自立し ているかに思える謎は、道具の抽象形の有用性を端緒にすることによって合理的に解明できる。(中略)形式の価値は道具の形に端を発するとはいえ、ただその ような対自然的体験だけで自立するわけではない。(中略)労働によって獲得された抽象形が、社会の中で人間相互の連絡手段として使用されることこそ が、(表現手段としての抽象形こそが)形式の価値の自律性を実現するものであり、形式による以外には満たせない特殊的価値を決定して行く。」「社会の共同 生活が美意識の特殊化に作用する契機が、人工的抽象化の社会的表現手段化にある。」こうした美術的形象には社会的役割があり、それは要請される。この抽象 形の必要の論理は、言語や文字の発達を見れば直ぐ理解出来る。抽象的形が普遍化に向かったように、やがて芸術と呼ばれる領域が築かれる時、美意識の特殊化 が完成されよう。この「特殊価値としての美の成立は、すなわち美の普遍化にほかならない。芸術活動が社会的に確立するに従って、自然一般をも芸術作品であ るかのように眺める人間の態度が確立して行く。」この引用文は永井氏の著書『反映と創造』からであり哲学的でやや難しい。それをかみ砕いて説明する誌面は もう残っていないが、我々が美を自然の中に見出す根拠は人間の造形活動にあるということである。

旧石器時代の美術的形象
 アルタミラ洞窟などに指で擦ったような図柄があり、幼児のなぐり描きの様な形象である。原始文化を解釈する際に、こどもの行いと比較されることがある。 確かに原始時代は人類の幼年期であるから、この比較から理解されることもあろうが、洞窟画を残したのは大人であり、大人には成人としての必要や気持ち(労 働、性的関心、親としての心情など)があったのだから、単純にこどもになぞらえると誤ることになる。さてもしその図形がなぐり描きであるならば、これは内 面的な情動の表出として出来たのかも知れず、美術には情動の外化が根源的だと考えることも出来よう。

しかしこの図柄の中には、動物の頭部が描かれているこ とが分かっている。動物描写の出現と言えば、この画像よりもはるかに昔と考えられるショーヴェ洞窟の多くの鮮やかな動物像があり、そこでは人類はいきなり 写実的な描法を行った様な感がある。また旧石器時代の大半の絵は動物を写実的に表し、迫真的なものもある。だから、「形象が動物的人間の自己表出の発展で あるとしても、その独自的本質は、それが単なる自己表出ではなく、対象把握であり対象描写である点でこそ形成されるのである」と言う、永井潔氏の観点 (『芸術論ノート』)は重要だ。

 
 港千尋氏は石器の製作に見られるある学者の言うレプリケーションという概念に注目している。そこでは石の塊を 砕きながら、次々に現れる稜線を見きわめ、一方の稜線と他方にできる稜線を計算し、中央の軸線でぴたりと合わせないと、左右対称な両刃の石器は作ることが できない。石の形はつねに変容し、そこで複数の線のなかからあらかじめ頭の中でイメージした線に近似するものを選ぶというプロセスを繰り返す。これは指で 描く無数の線の中から、選択と反復を通してある表象が出てくるというプロセスと基本的に同じだろう。人間が二つの対象に対してそれが「同じであるか」か 「似ているか」かという判断を積み重ねる経験を蓄積して行き、その過程で複数の折り重なる線の集合から「似ている」と判断される線を選択する。我々もデッ サンやクロッキーをするとき、これに似た操作を行っているのではないだろうか?ところで造形は、原始であれ現代であれ、写実であれ抽象であれ、対象が事物 であれ精神的であれ、実物ではない仮象である。芸術一般が現実を何らかの形で反映した仮象であることや、仮象であるからこそ強く真実を表すことについて は、ここでの論題としないが、こうした仮象は意味があるから制作されるのであろう。ある学者は旧石器人が視覚的記号を見るときの心について、指示対象とは 関連のない視覚的図像への意味の付与を、動物の痕跡を解読する能力の中に見ている。確かに狩人は、動物の足跡、排泄物、樹木の傷などを見て、動物を察知す るであろう。実物が居なくてもその跡が仮象として、実物を指示するのである。

 

 旧石器時代の仮象としての画像も、対象を表現していると思われる。私が前号で述べた部分では、抽象作用を強調した。しかし美術は抽象的であると 共に具体的提示でなければ、美術とは言えないだろう。芸術では、観念上だけでの抽象では表現出来ず伝えられなく、音なり色・形なり何らかの具体的なかたち やイメージを媒介とする。そして旧石器時代の画像の多くは、リアリスティックである。

 

原始の造形と呪術
 旧石器時代の図像の意味については、今日の専門家達は憶測は控え、ただ実証的なデータの研究を積み重ねている。だから私がいい加減なことを言うわけにはいかないが、旧石器時代の動物像のリアリズムについて考察することには意義があると思う。それら動物像は一般に洞窟の奥にあり、眼前にモデルは居なく記憶で描かれた。記憶には二次的なものは薄れ、対象の本質をもっともよく表す“かたち”が留められるから、そこからの動物像がリアリスティックであるのは当然の事に思われる。この形象は動物捕獲との関係やそのための呪術と結びつけられて解釈されることが従来は多かった。木村重信氏も次のように言う(『美術の始源』)。旧石器時代人では呪術的な興奮が高まると、記憶が表現の媒介として作用しそれは素材と言える。また「彼等の表現では媒介は結果と合一しているから、媒介を通じて素材はそのまま作品の実体となりえた。このような意味で、旧石器時代人が記憶を想起する場合、記憶そのものは彼等自身にとって既に現在的であり、(中略)表象は単なる表象ではなく、表象的なものと現実的な感情とが、そこにおいてはひとつであった。イメージが直ちに実在的であった。従って彼等は表象される対象にたいし(中略)、野獣の現前によって喚起された感情を伴うのである。」


 木村氏は『はじめにイメージありき』と題する本では、「呪術こそイメージからうまれた」と書くことはあるが、すぐにイメージは「それ自体が呪術の原型であった」とか、呪術によって「旧石器時代美術の様式が成立する」とする。この呪術は英語ではMagicと言い魔術でもあり、それは一般には正常な行為ではなかろう。しかし我々は芸術の起源は魔的に歪んだ非合理なものではなく、素晴らしい動物表現は正常で健全な生活の精神から出来上がったと思いたい。この点に関して永井氏の次の見解を引用しておく。呪術は、「形象の現実的な価値が一面的に誇張された結果として生じた現象であろう。(中略)形象的表現活動の反覆が惰性化し、次第に儀式化し、実践から遊離するにつれて形象の実質的機能は失われはじめ、それにもかかわらずその儀式化した形象の実効が依然として教条主義的に信ぜられるとすれば、それはどうしても呪い〔まじない〕へと転化せざるをえないであろう。」「魔術が形象を生んだのではなく、形象の堕落が魔術を生むのである。」「形象制作はまず正しい現実認識活動からであり、誤認や迷信としての呪術と混同しないこと。」


造形と模倣
 木村氏に従えば、旧石器時代人は描かれた像に働きかけて、現実の動物に呪術的な作用を及ぼすことができると信じえたのである。「かく現実的で具体的な作品は、まさしくオブジェとよぶほかはない。何故ならそれはもはや或る特定動物の模像ではなくて、すでに実物像なのだからである。(中略)つまり、一本の樹、一個の卵がそれ自身完結した具体的な物体であるように、絵画もまた一個の物体─オブジェとなるのである。」このような呪術的解釈は魅せるところがあり、旧石器時代の造形と現代美術をつなぐようでもある。また木村氏は旧石器美術から新石器美術への移行をオブジェからシンボルへと呼ぶ。確かに旧石器時代の造形には具象性が目立ち、新石器時代には形象は抽象的な美しさを輝かせる。そして人類はやがて絵文字を生み、記号化も進める。しかし旧石器時代の造形をオブジェと解釈することは出来ず、今のところその意味は不明で解明されることが期待されている。

我々が今これらに接して認識しておくべき事は、そのオブジェ性よりもむしろその形象に於ける模倣の意義であろう。なぜなら人類の進展にとっても芸術の成 り立ちにとっても、模倣(ギリシア語でミーメーシス)が極めて大きな意義を持つことをアリストテレースも語りハリソン女史が論じているように、我々も深く 把握しておくべきだと考えるからである。ミーメーシスは原始の狩猟などの社会生活の中で生まれた、形象的活動である。そこに仮象する意識(物質に対して意 識は仮象である)は、動物的意識より高次な媒介を経た間接的意味意識である。この形象は真理の源泉であるとともに、人間的誤謬の源泉でもある。そのことを 詳しく説明する誌面はもう無いので、ミーメーシスこそ「一切の精神文化の原点である」と考える永井潔氏の論の参照に委ねたい。